【左】井戸との分岐点から上がって、西第十曲輪方面へ。
【真ん中】写真左側から右へ上がると、西第十曲輪への虎口。結構、キツイ坂だった(^^;)
【右】虎口側から振り返って。
この登り道一帯は、実際、城の機能していた時期に使用されていた曲輪への出入口である虎口が検出された地点である。 当時はかなりの急傾斜になっており、道幅が約2m、東側には雨水を流すための溝が設けてあった。 虎口を登りきった所には、ほぼ同じ大きさの2つの柱穴が発見され、門の柱を立てた跡と考えられる。 この門は棟門と呼ばれる構造で、2本の柱の上に冠木という部材をのせた鳥居の様な形の骨組みをし、 これに板葺きの屋根と内開きの扉が付いていたと考えられる。現在、門の両側には植栽を行っているが、 敵の侵入に備える為土塁や矢来(木を使った囲い)等の防御施設が続いていたと考えられる。 なお、後の時期には東側に控柱をもった土塀が造られているが、その時の門の構造はよく分かっていない。 (松野町教育委員会の案内板より)
【左】西第十曲輪への虎口。
【真ん中】当時は急傾斜で、門の手前に2つの溝があったんだそう。
【右】内側。写真右側が西第十曲輪。
【左】茶色が古い段階、青色が新しい段階。
発掘調査で確認した様々な施設は、全てが同じ時期に使われていたのではなく、
大きく分けると2つの段階がある事が分かった。1つは16世紀後半の古い段階(1550〜1600年頃)で、
土塁、堀切状の遺構、掘立柱建物、門を備えた出入口が機能している。
もう1つの時期は、16世紀終末から17世紀初頭の新しい段階(1600年前後)で、
多聞櫓と出入り口付近に土塀を確認している。このうち、西第十曲輪の保存整備は、
16世紀後半の古い段階を対象としている。これらの施設は、全国各地で見ることが出来る江戸時代の城、
例えば松山城や宇和島城等よりも一段階古い時代の特徴を示している。
西第十曲輪は、城の中心部にあたる本郭から階段状に連続する10番目の曲輪で、
西の端の最も低い地点に位置している。その為、敵の侵入を受けやすく、
城を守る上で重要な役割を担っていた。(松野町教育委員会の案内板より・位置図も)
曲輪の中央部では、2棟の建物跡を検出した。 これらは、岩盤に円形の穴を掘り、直に柱を埋め込んで建てる掘立柱の建物である。 絵巻物等を参考に復元表示を行った左側の建物は、西側を板敷とし、東側には土間を、北側に庇を設けていた。 建物には角柱が使用され、壁は土壁で、その下地を利用して作った下地窓が付き、 屋根はこけらと呼ぶ薄い板を葺いた構造であったと考えられる。 また、柱の列が正確に並んでいることから、番匠と呼ばれる建築の専門工人が造った建物と考えられる。 一方、右側の建物は柱のあった位置や間取りを平面的に表示している。 間仕切りのある南側は土間で、北側は竹を並べて筵を敷いた部屋であったと思われる。 左側の建物と比べて、柱の穴の列がかなり歪んでおり、こちらは素人造りの建物のようである。 この2棟はあまりに接近しており、屋根が当たってしまうので、同時には存在できない。 これは当時の建物は掘立柱の腐りやすい構造の為、短期間のうちに建て替えが行われたことを示している。 (松野町教育委員会の案内板より)
【左】門をくぐって左側。復元された掘立柱建物とその左側が平面表示。
【真ん中&右】平面表示。説明板の2棟が近くて、屋根が当たるから同時は無理というのが納得。
【3枚】復元された掘立柱建物。段ボール製の馬が2頭と何か分からないものがいた(^^;)
西第十曲輪の周りには切岸と呼ぶ人工的な崖を巡らせ、更にその上には土盛りの防御施設である土塁が築かれていた。 この地点の土塁の整備は、完全な復元ではなく可能な範囲で行われている。曲輪側の立ち上がりについては、当時のラインを示しているが、 高さと幅は本来のものではない。実際は、南部や東部で完全に復元している様な土塁が続いていたと推定している。(松野町教育委員会の案内板より・位置図・模式図も)
【左&真ん中】緑色が完全復元、茶色が半立体表示。 【右】南側の切岸。発掘調査中かな。
【左】右手前の低い土塁が半立体表示部分、その奥の土塁は完全復元部分。
右側の土塁横に多聞櫓があったよう。奥の案内板のある土塁が切れているのは、整備の様子を示す為で、実際は続いていた。
土塁の案内板によると、高さと幅は本来のものではないそうだけどいい感じ♪
特に南部の隅では、この盛り土の跡が明瞭に残っており、その範囲は東西へと延びていた。 発掘で判明した盛り土の幅(約2.2m)を参考にすると、土塁の高さは約90cmであったことが確定でき、 ここではその様子を立体的に再現している。土塁は、曲輪の内を広くする為、斜面から外にも築かれていた。 岩盤を階段状に削って足がかりを作り、その上に質の異なる土を叩きしめながら交互に積み上げていた事が判明している。 同じく曲輪の端で大型の柱穴の列が認められ、土塁を取り払った後に、 長屋状の多聞櫓と土塀を組み合わせた防御施設が造られたことが分かった。 土塀の後ろには離れて控柱が建っており、籠城の時には、間に板を渡して武者走りとして使う工夫がされている。 16世紀の終わりから17世紀の初め頃(1600年前後)古い土塁から新しい多聞櫓へと曲輪の端の防御方法が変化したのである。 (松野町教育委員会の案内板より)
【左&右】西第九曲輪方面に続く半立体表示。 【右】(パノラマっぽく加工)気持ちがいい景色(^^)
【左】(パノラマっぽく加工)土塁を断ち割った所から南側の堀切。【右】山がよく見える。この下が堀切。
南へ約5m下がった所では、2本の堀切状遺構が見つかっている。 植栽を行い、範囲を表示している外側の遺構は、古い時期に設けられたもので、 幅が約2.4m、深さが約60cmあった。一方、内側の遺構は立体的な表現を行っているが、 発掘調査の結果、外側の古い段階の堀切を埋めた後に掘り込んである事が判明している。 出土品から16世紀(1500年代)に築かれた新しい時期の堀切と考えられる。 「コ」の字形をしているが、中央は浅く、両側に行くにつれて段々と深くなっている。 これは敵が尾根を登ってくる際に、左右へ回り込むのを防ぐ竪堀機能が加わっていると考えられる。 なお、この地点の更に下方の斜面や西側に並ぶ尾根にも、多数の堀切や竪堀が連続して設けられたことが分かっている。 また、ここでは1棟の掘立柱の建物を検出している。(松野町教育委員会の案内板より)
【左】西第七曲輪から西第十曲輪を見下ろして。
【右】西第十曲輪の門から西側が西第九曲輪で、次が西第八曲輪、階段上が西第七曲輪。