この堀切は、上端の幅約7m、下端の幅約4m、深さが約3mの城内最大規模となる。 発掘調査の結果、堀底には新旧6段階に及ぶ掘立柱の門の跡が見つかり、 道として利用されていた事が分かった。ここでは古い段階と新しい段階の2つの門の跡を整備(柱を黒石で表示)している。 古い段階は、道幅が狭く進行方向に対して直角の位置に門が築かれている。 左の図でAとした門は堀切北側の斜面にあったため、上簀戸門という外開きの門であったと推定される。 新しい段階は、右の図のBの門で道幅が最も広がり、門を構成する柱穴も巨大で、 その間隔も約3.6mとなっており、大型で内開きの棟門であったと考えられる。 堀底のほぼ中央に位置しているが、進行方向に対して斜交する位置に変化しており、 外からの進入者が簡単に直線的に入って来られないよう防御上の工夫がなされている。 この堀切は、長期間にわたって存在しており、また城の内と外を分けるような位置にある事から、 大手や搦手といった城の最も重要な出入口(虎口)として機能していたと考えられる。(案内板より)
【左】古城第二曲輪から見下ろして。幅が広くて深い!
【真ん中】左が東第四曲輪、右が古城第二曲輪。門があったなんて不思議な感じ。
【右】真ん中の写真の右奥。草が凄い状態に!
【左】左が古城第二曲輪、右が東第四曲輪。
【右】左の写真の奥。竪堀っぽいものが…。
【左】東第四曲輪から堀切を挟んで、古城第二曲輪を。
【真ん中】東第四曲輪側から堀切を通って、古城第二曲輪へ。
【右】古城側から。字が消えかけた案内板があった(^^;)
城内で最も高い本郭の東側約160mの地点にある。標高は約153mで、麓にある集落との比高差は約69mである。 これまでに行った発掘調査では、他の曲輪と同じく岩盤を円形に掘り抜いた多くの柱穴の跡を検出している。 これらは、柱を土の中に埋め込んで作る掘立柱による施設の痕跡を示したもので、 古城では、建物跡9棟、石打棚(塀庇へいびさし)跡1基を確認した。 このうち、大型の番小屋や納屋、井楼と考えられる建物跡4棟、 また曲輪縁辺の防御施設である石打棚(塀庇)跡について、柱の位置(黒石で表示)や間仕切りの様子を整備している。 これらの建物などは、出土品の年代からおよそ15〜16世紀(1400〜1500年代)のものと考えられる。(案内板より)
【左】手前が堀切、次に古城第二曲輪、奥が古城。
案内板によると、そのまた奥に堀切、古城第四曲輪、古城第三曲輪が続くらしいけど、古城までの見学にした(^^;)
【真ん中】古城第二曲輪から古城へ。
【右】右が大型番小屋、左側が井楼跡、奥の左側が番小屋。
古城の北西部を防御するための石打棚(塀庇)の跡が検出されている。 曲輪の縁に沿って、約1〜1.5mの間隔で柱の列が並び、 その列の後方にも同じ数の柱の列が並ぶことが分かった。 このことから、外側の柱列は土塀の柱で、内側の柱列は土塀を支える控柱であると考えられる。 このような2本1組の柱による石打棚(塀庇)は、平時には厚い土の壁と屋根、 弓矢等による攻撃用の窓を持った外側の土塀部分が防御機能を持っている。 しかし、籠城の際には、土塀の屋根から控え柱の頂部にかけて歩板(あゆみいた)をかけ、 さらに土塀の上に楯板(たていた)を設けて、上下2段で攻撃ができるよう一層防御性の高い施設に変化したと推定される。(案内板より)
水溜りの中に、アメンボがいたのが不思議だった!
東西が約8.5m、南北が約6.5mの規模であり、柱間は約2〜2.2mが基準で当時の6尺5寸〜7尺となる。 建物は柱の配置(黒石で表示)から、その本体となる北側の身舎(もや)部分と、 庇となる南側の下屋部分に大きく分かれていたと想定される。 屋根は薄い板を重ねたこけら葺きで、壁は土壁、床は全て板敷きで、 身舎と下屋の境には商事や板戸がついていた。ここでは、建物の柱の位置と間仕切り、 さらに板敷きの目地の様子を整備している。この建物は、古城の中では勿論、 城内で最も規模の大きい番小屋であることから、城主に次ぐような階級の有力者が使用した建物ではないかと推定される。(案内板より)
【左】右側が東第四曲輪へ、その下が分岐点へ。
【真ん中】左下が新城へ。
【右】見上げて。左が本郭、右が古城へ。
【左】古城側から。
【真ん中】古城方面。
【右】きれいな羽根のトンボがとまっていた(^^)
【左】古城付近の堀切から下りた所の分岐点。写真左側が風呂ヶ谷方面、写真手前が新城方面。
【真ん中】左の写真の分岐点の左側の道で、風呂ヶ谷方面へ。
【右】キツイ坂を下ると風呂ヶ谷。