えひめけん ゆづきじょう
■湯築城=見学自由
■道後公園(24時間開放)
展示施設=入館無料(9時〜17時)
休館日=毎週月曜(休日の場合翌日)、年末年始。
駐車場=有料駐車場(コインパーキング)
※北側と西側にある。
2009/5/2現在
住所=松山市道後公園
この時は、西側の駐車場を利用したので、松山城の東側の県道20号〜県道188号へ。
緩やかな左カーブで、道後公園が正面になる信号の所で、
路面電車に気を付けながら右折。左側に駐車場がある。
■道後公園…道後公園は全体で約8.6haあり、外堀を含め南北約350m、東西約300mで、中央部は海抜約70m(比高約30m)の丘陵部となっている。
外周は外堀で囲まれ、丘陵を取り巻くように内堀がある。明治19年に設置された道後植物園を前身とし、明治21年に県立道後公園となった。
昭和62年の道後動物園移転に伴い、昭和63年から発掘調査を実施したところ、湯築城跡の遺構や遺物が数多く出土した。
12年間に及ぶ発掘調査によって、遺構として、道路、礎石建物、土塀などが検出され、遺物として、土師質土器、
輸入陶磁器などの土器類や武具、建築用具の金属製品など約25万点が出土している。
湯築城跡の遺構は、全国的にみても、中世守護の城館としてまれに見る良好な状態で残っており、極めて貴重な遺跡であることが明らかになった。
この遺跡を保存・活用する為、復元区域では武家屋敷や土塁などの復元、出土遺物・遺構の公開を行っており、散策・休憩しながら楽しく歴史を学べる場としている。
■湯築城跡…湯築城は、二重の堀と土塁を巡らせ、
その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」の形態をなす中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約250年間存続した。
南北朝時代の初め頃(14世紀前半)、河野通盛(みちもり)によって築かれたといわれている。
通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信(みちのぶ)、13世紀後半の蒙古襲来の際、活躍した通有(みちあり)がいる。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷
(現在の北条市)からこの道後の地に移った。
築城に関する文献は残っていないが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、忽那家(くつなけ)文書の記述などから、
遅くとも建武年間(1334〜1338)には築城されたと推定されている。
河野氏は、その後讃岐から攻め行った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されたが、守護職とともに湯築城を奪い返した。
しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではなかった。
天正13年(1585)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、
河野通直(みちなお)は降伏し、やがて湯築城は廃城となった。(案内板より・絵図も)
西側のコインパーキングを利用して、西側の搦手門から散策開始。
【右】1番上の写真の幟が、逆なので改めて(^^)
【左】搦手門から北方面の外堀。この先に、レトロな道後温泉駅等の見所がある♪
【真ん中】外側。
【右】内側。
【左】発掘調査の成果や河野氏の歴史を展示。
【真ん中】湯築城の模型。
【右】湯築城資料館前の西側の外堀土塁。
【左】中に武家屋敷1。 【右】武家屋敷1の入口。
土塀は川原石を使って0.7m幅(最大は1.0m幅)の二列の石列を作り、間に小さな石をつめて2〜3段の高さの基礎を立ち上げる。 その上に粘土のブロックを積み重ねて、表面に壁土を塗り仕上げる。調査では基礎石部分だけが検出された。 各屋敷は14〜15m間隔で土塀によって区画されており、道路側で土塀の切れている所を入口としていた。 土塀の立体復元は、周辺民家の土塀や石手寺に残る「往古図」にみられる各種の土塀を参考に、 本体や屋根の構造とか高さなどが検討された。(案内板より)
この屋敷は、発掘された礎石の配置から見た間取りや当時の資料をもとに復元された。 礎石の間隔を測ったところ、柱間は全て均一で、1.97m(6尺5寸)を基本とする礎石建物であることがわかった。(案内板より)
【真ん中】主室で、武士や僧侶が集まって「連歌」中。
【右】板の間の台所で使用人が、客人に茶を点てる準備中。
【右】南側から。
この屋敷は発掘された礎石の配置からみた間取りや当時の資料をもとに復元された。 5個の礎石と2ヶ所の礎石抜き取り痕が発見され、これは建物の棟通りと考えられる。 また西側の南北に並ぶ礎石は、他の礎石よりも小さいことから、この建物の西側には庇(ひさし)などがあったと考えられる。(案内板より)
浅いなぁ…。自分だったら、何かの仮置場にするかな。ってナニを(^w^)?
この遺構は、まず円形や楕円形の穴を掘り、河原でとれる拳から人の頭位の大きさの石を集めてきて、この穴の壁に積み上げて造る。 「井戸」や「便所」として使われたのではないかと想像したが、この穴の底は水の湧く層に達していないので、井戸として使えない。 便所であれば寄生虫などの卵が必ず発見されるのだが、土を分析しても見つけることができなかった。 今のところ何の目的で造られたかは不明。(案内板より)