【左】この土塁、そんな所だったんだ…(@@;)
【右】北側から西側の内堀を。
この城には堀が二重に巡らされている。 そのうち内側の堀を「内堀」という。敵が中央の丘陵に簡単に攻められないようにするために、掘られたものである。 さらに守りを固める為、堀を掘った時の土を掻き上げて土手を造っている。 これを「内堀土塁」と呼ぶ。内堀の規模は、幅11〜12m、深さ3m、内堀土塁は基底幅7m、復元高2m程度である。 内堀土塁が造られるより前の層(おおよそ14世紀)に掘り込まれた土杭(穴)が見つかった。 土杭の中には石が4個と、大量の炭や焼けた土がつまっていた。さらにその土に混じって人骨の小破片がたくさん見つかった。 このことからここでは火葬が行われていたと考えられる。4個の石は棺桶を置くための台であったのであろう。(案内板より)
【左】内堀土塁の切れ目。排水溝の水が流れるようになっている。
【真ん中】切れ目から東側。
【右】切れ目から西側。
この場所には、長さ6.8m、幅3.4m、深さ0.8mの、発見した中では最大の土杭がある。 中からは土師質土器の皿が大量に出土しており、また、破損した陶磁器や魚骨、貝類などもみられ、 ここがゴミ穴として利用されていた事がわかる。 当時、土師質土器の皿は、儀式や宴会で使用された後に捨てられる。 近くにある庭園をのぞみながら宴会などを楽しんでいたのであろうか。(案内板より)
ここでは池が発見された。3m四方に小石を敷き詰めた深さ0.3mの浅い池と、大きな石を周囲に配置した最長8m、最深部0.8mの池が一体化した形である。 道路に沿って流れている排水溝から、細い溝をつないで池に水を取り込んでいる。 池の周囲には建物の一部と思われる礎石があることから、池をのぞむ建物などがあり、庭園が造られていたと考えられる。(案内板より)
ちょろちょろと水が流れる。
外堀土塁の内側には道路と排水溝が巡っている。道路の幅はおよそ3m。 道路に接して流れている排水溝は、大小さまざまな大きさの川原石を積み上げて作られている。 城内には排水溝が折れ曲がり道路幅の狭くなっている所が数箇所あるが、 この場所は道路も排水溝も直線的に伸びており、これらの基本構造を最もよく表している。(案内板より)
外堀土塁は、外堀を掘った土を盛り上げて造られた土の壁(土手)で、「掻揚(かきあ)げ土塁」と呼ばれ、かつては城全体を取り囲むように築かれていた。 この外堀土塁の機能は、外堀と一体となって城内への外敵の侵入を防ぐことや、 外部から城内が見えないように遮るためのもので、湯築城における最も重要な防御施設の1つだった。 湯築城の外堀土塁は、断面が台形状をなし、規模は基底幅が約20m、高さが約5mと推定される。 この外堀土塁の総延長は約900m程度あり、この土塁の築造には約300人で掘っても、6ヶ月くらいかかる量の土が使われていたと推定される。 この付近の土塁が最も残りが良いので、断ち割って造り方をみることにした。(案内板より)
【左】写真左奥が、「道路・排水溝・外堀土塁裾石」。
【真ん中&右】土塁展示室。
■道路・排水溝・外堀土塁裾石…城内の南東角に当たる。 外堀土塁に沿って造られている道路や排水溝は、この場所で折れ曲がり、 水はここから西に流れて行く。 また、道路に面して外堀土塁の裾に巡らされている裾石は、 ここが最も高く良好に残っている。(案内板より)
上級武士居住区。
城跡がスッキリしているだけに、岩肌の荒々しさが際立つ!!天然なんだなぁ。
土杭の大きさは、長さ約2.5m、幅2.0m、深さ0.5m。この土杭は内堀土塁裾に作られた排水溝を壊して掘られている。 出土遺物は、土師質土器の皿や杯が最も多く、中でも京都の土器を真似たものが、他の土器溜りに比べて多いことが特徴である。 これ以外に釜や擂鉢、備前焼や中国陶磁器、瓦質土器がみられる。また周辺では西日本で出土例が少ない丹波焼きの擂鉢もあった。 最大土杭と同じく儀式や宴会で使用されたものが捨てられたと考えられ、前方に見られる天然の岩肌のすばらしい景色を眺めながら宴会が行われたのであろう。(案内板より)
この土塁のある場所は、外堀と内堀の間が最も狭い所である。 この土塁の重要な役割は、大手からの視線を遮る事と、上級武士居住区への容易な侵入を防止する事にある。 勿論、この土塁と外堀土塁の間には門が必要である。目の前の溝は当時の実物である。 大手からの溝は2段階まで使用された後、埋められていた。 石の間にみられる赤い線から上の部分は、石が抜け落ちていたので、新しく石をいれ復元している。 内堀に流れ込む溝は4段階のもので、遮蔽土塁の南面を区画している。 溝が交わっている箇所で、作られた年代の新旧を判断する事ができる。(案内板より)
【左】南側の排水溝。 【真ん中】東側の実物展示。 【右】北側から。