御廊下橋 | ||
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左端に藩主専用の御廊下橋。石垣上には、瓦葺き、腰板張りの土塀もあった。
今でもこの橋の名前や水濠と石垣は、ほぼそのまま残っている。
(案内板より・絵図も)
(左=外側から、埋御門跡方面) 昔ってこうなんだなって、照らし合わせて見ると、感慨深いなぁ。 |
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御廊下橋より天守台の石垣 | 御廊下橋より坤櫓跡方面 | 坤櫓跡&御本城橋 |
石垣の出っ張り部分が好き。 | 右の引っ込んだ石垣の上が坤櫓跡。 | トコトコ堀周りを歩いて、南から。 |
御本城橋 | ||
中央の御本城橋が、本丸へ通じる正門である。門を入ると右手正面に 「瓦御門」があった。右端に見えるのは、巽櫓で、寛文9年(1669)に 天守閣が焼失してからは、この巽櫓が左端の坤櫓とともに三層に 改築され、天守閣の代用として福井城の象徴となった。 (案内板より・絵図も) | ||
御本城橋を渡って左側で、奥が坤櫓跡(無理やりパノラマ) | 案内板 | |
御本城橋を渡って本丸へ。その左側の石垣。奥の端には坤櫓跡。 案内板の赤丸が現在地、黄色部分が天守台跡。 | ||
瓦御門の石垣? | 瓦御門?の左側に続く雁木 | 県庁 |
御本城橋を渡って本丸に入り、右に曲がった所。 御本城橋の説明によれば、瓦御門があった場所になるのかな? | ||
巽櫓跡 | ||
御本城橋から本丸を出て、東へ。 真ん中の写真は、2004.5.2に写したもの。この日は晴れていたのにな〜。 | ||
巽櫓跡(1番奥=艮櫓跡) | 艮櫓跡(右端=北の土橋) |
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(左)巽櫓跡から艮櫓跡がチラリと見える(^^)それにしても、 5月とは思えないほど風が冷たい見学となった(^^;) | |
結城秀康 | |
越前福井藩祖である結城秀康は、天正2年(1574)徳川家康の次男として生まれた。
江戸幕府2代将軍秀忠の兄である。天正12年(1584)羽柴秀吉の養子となり、
秀康を名乗る。これは、秀吉と家康から各1字をとったものである。
天正18年(1590)結城家の養子となり、下総(現・茨城県)結城で10万余石を相続した。
秀康は、慶長5年(1600)越前68万石を拝領。
秀康の越前入封は、外様大名である加賀前田家を押さえる
目的であったと考えられる。
翌年、入国と同時に築城にとりかかり、6年の歳月を要して、慶長11年
(1606)に福井城を完成した。
秀康による北ノ庄の改修は、吉野川の河道を利用した
百間掘の掘削や、高さ約40mの天守閣の造営、城下町の拡大など
大規模な物だった。 慶長12年(1607)秀康は34歳で病没したが、その後も、越前松平家は御三家に次ぐ 家格を保ち、中でも第16代藩主松平慶永(春嶽)は、幕末の困難な時局にあって政治総裁職を 努めるなど名君として名高い。(案内板より) (右)県庁前。 |
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旅立ちの像 | |
旅立ちの像 安政5年(1858)冬、横井小楠の一時帰国に同行して 三岡八郎は九州に旅立った。目的は、長崎での物資販売 ルートの開拓であり、この成功により藩財政は著しく改善され、 福井藩は幕末の雄藩としての地位を固めていった。 彫像は九州に旅立つ三岡八郎(後の由利公正)と 横井小楠の姿を表現した物。 (財団法人 歴史のみえるまちづくり協会の案内板より) 三岡八郎(由利公正)・1829〜1909 幕末の福井藩士。若くして藩財政に興味を抱き独力で、5年間に亘る調査を実施した。 幕末四賢公の1人として称えられる福井藩主松平春嶽に抜擢され、藩政改革を進め、 横井小楠が福井に招かれると小楠の理論を実践し藩財政の立て直しに成功した。 坂本龍馬と親交が深く、慶応3年(1867)龍馬が福井を訪れた目的の一つは、 八郎の新政府への参画を促す事であった。 新政府では財政面の責任を担い、また五箇条誓文の原案を起草した事は 有名である。明治4年(1871)初代東京府知事となり、東京の近代化に尽力した。(案内板より) 横井小楠・1809〜1869 熊本藩士。幕末期の最も進歩的な思想家の1人であり、 勝海舟、坂本龍馬なども一目置く存在だった。 福井藩主松平春嶽は小楠の実力を見抜き、彼の派遣を熊本藩に要請した。 この英断により安政5年(1858)小楠は福井藩の政治顧問に招かれ、 三岡八郎等を指導し、藩政改革にその思想を反映させた。 文久2年(1862)春嶽が幕末の先頭に立つ役職である政治総裁職に就任すると、 そのブレーンとして国政に大きく関与した。 文久3年(1863)福井藩を辞去し熊本に帰国。 大政奉還後に新政府に招かれたが、明治2年(1869)京都で暗殺された。(案内板より) |
■福井城…2004.5.2記
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