ふくおかけん もじおうかん だいりしゅく
■長崎街道・門司往還・大里宿
■常盤橋
■門司口門、門司口橋
※門司往還・大里宿のページでは、2008/1/1の写真も使用しています(表記あり)。
(写真)案内板をクリック→拡大。北九州市門司麦酒煉瓦館(旧サッポロビール九州工場事務所棟)の前に立つ案内板。
2015/7/6現在
住所=門司区大里〜北九州市小倉北区
【左】門司赤煉瓦プレイスの南西側。写真右奥が住吉神社跡。
【右】北九州市門司麦酒煉瓦館(旧サッポロビール九州工場事務所棟)の前に立つ街道松と人馬小屋跡。
この時、松を入れて写していなかったので、前回の写真を…。(2008/1/1撮影)
門司赤煉瓦プレイスの赤煉瓦交流館(旧サッポロビール九州工場倉庫)の所に石碑が立つ。
寛政11年(1799)幕府(長崎奉行所)は大里浦出張所をここに設置した。 当時、玄界灘に出没した密貿易船の取り締まりと、対唐貿易の代物(俵物諸色)を長崎に送る為、 保管中継の基地として設置した。(石碑より)
門司赤煉瓦プレイスの赤煉瓦交流館(旧サッポロビール九州工場倉庫)の隣の建物前に石碑が立つ。
大里宿は長崎街道に沿った直線五町五十二間(約646m)の町並みで、 ここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が建ち並んでいた。 西隣には長崎番所が設けられていた。(石碑より)
大里宿は江戸への玄関口であり、長崎街道の始終着駅であった藩政期街道要路には、 里程の目安として一里塚標石を設けていた。(石碑より)
【右】こちらからだと、右側の電柱に隠れて見えない。一里塚標石跡からすぐ先の右側が人馬継所跡。
個人のお宅の敷地にあった!
人馬継所は宿場の主要施設であって継立の人馬を常備していた。 旅人は料金を支払って人馬駕籠を頼み、次の宿まで旅行した。(石碑より)
この地に御高札と南郡屋が建っていた。御高札は幕府及藩の通達を掲示した。 隣接の南郡屋は藩役人が各村庄屋へ通達と打ち合わせを行った所。(石碑より)
【右】右の白い看板が付いたフェンス奥。こちらからだと、隠れて見えない(^^;)
伊能忠敬幕命により全国測量の途中・・・本陣重松彦之丞に止宿家作よし・・・ と文化7年正月十二日の測量日記に記せり。(石碑より)
【右】御高札・南郡屋跡側から。右の2本目(切れた電柱除く)の電柱横が重松彦之丞屋敷跡。
この通路の入口右側は浜郡屋、左側は御在番役宅、突き当りに御番所があった。 浜郡屋では湊出入者及船泊の検問、取り締まり等を役人・在屋等が協議したところ。(石碑より)
【右】通路左奥が、御番所跡。
この通りの(御成小路)の海側に御番所があった。 本土との渡海口にここの在番役人は船の出入り、人馬の切手改め抜け荷の取り締まりを行っていた。(石碑より)
【右】右側の電柱奥の白い建物の壁横(駐車場側)に隠れるように石碑が立つ。 そこからすぐ左側に、本陣(御茶屋)跡がある。
通りから少し奥まって鳥居があるので、車だと見落としやすい。この鳥居の下に石碑が立つ。
江戸期九州諸大名長崎日田代官、オランダ使節等が江戸への往復の途中、 休泊した小倉藩の施設があった所。(石碑より)
江戸期凶作に苦しむ農民を救済の為、私財を投じて門司小倉に新田、 門司、六本松、猿喰、小倉、曽根百拾八町余を改作した郷土の誇りとする功績者である。(石碑より)
寛永16年(1639)、徳川幕府による宗門改めの政策によりキリスト教は禁制となり、 それに伴い踏絵が実施された。豊前国企救郡に於ける踏絵は、毎年三月三日頃、 西生寺にて行われ、幕末まで続いた。明治の初め頃まで此所に「判行寺」と刻した石碑が建てられていた。(石碑より)
【右】左奥が西生寺、右奥が大専寺。
■柳浦山西生寺(りゅうほざんさいしょうじ)縁起… 西生寺は康正2年(1456)、等阿弥陀慧門大和尚によって創建された阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、 総本山光明寺(京都府長岡京市)の末寺である。この地は元々細川小倉藩第2代藩主忠利公の浜御殿(お茶屋)があったが、 寛文年間(1670年代頃)に、小笠原小倉藩第2代藩主忠雄公の命により大里宿場内 (現在の大里本町2丁目八坂神社前)にあった当寺をこの地に移転し、その跡地に本陣がおかれた。 江戸時代、徳川幕府の宗門改めの政策により、当寺は企救郡における判行寺(踏絵寺)として、 毎年3月に踏絵が行われた。また本堂内には信濃国守護職であった小笠原長時公の弟、 小笠原信定公の霊牌が安置されており、小倉藩歴代藩主は度々当寺へ参詣された。 その他境内には、細川公の浜御殿当時の古井戸や大里の浜で戦死した毛利家の家臣・ 福間元明の碑が残されている。当寺は慶応2年(1866)の豊長戦争で焼失し、 現在の本堂は、明治16年に再建されたものである。平成17年5月(西山浄土宗 西生寺の案内板より)