トロとまったり・tripのページ(長崎街道・門司往還 その3)

常盤橋

常盤橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪 (主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、 重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていた。 この橋の西勢溜(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため、 橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが建ち並んで賑わっていた。 参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っている。 中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介している。 このように海と陸の玄関口として、九州の各街道全てがこの大橋に連なり、 九州における日本橋となっていた。この度、川幅を広げる為橋の架け替えが必要になったのを機会に、 コンクリートと同じ強さを持つ木材を使い、江戸時代の姿、木の橋としてよみがえることとなった。 (北九州市の案内板より)

常盤橋の広告塔

広告塔は、明治23年頃、長崎街道の東の起点である常盤橋の袂に建てられた。 森鴎外の小説「獨身」において広告塔は、西洋から直接小倉に伝わった 「東京にないもの」のひとつとして挙げられ、 「常盤橋の袂に圓い柱がたってゐる。これに廣告を貼り付けるのである。」と書かれている。 当寺の小倉は、隣接する門司の西洋化に触発され、近代化への歩みを始めたころだった。 このような時代背景において建設された広告塔は、 ヨーロッパの街にアクセントを与えていた塔をモデルにした斬新なデザインであり、 商業地小倉らしいアイデアで親しまれていた。その後、明治時代の末期には、 塔の下方が便所として改装され、昭和20年代後半まで多くの人に利用されていた。 このモニュメントは、紫川周辺の景観整備の一環として、小倉文化の象徴であった 「広告塔」を当時の面影を残しつつ、新たに照明機能を備え、約3分の1の大きさで復元したものである。 平成15年(北九州市の案内板より・古写真も)

勝山橋
室町大橋(火の橋)
紫川大橋(海の橋)

■紫川大橋(海の橋)…紫川の河口部に架けられたこの橋は、照明灯が船のマストを、 橋脚が船の舳先をイメージしてデザインされている。(北九州市の案内板より)

伊能忠敬 測量200年記念碑

【左】写真右側の円盤が記念碑。この時、記念碑の上で男性が寝ていたので、全体が写せなかった(^^;)

江戸時代の測量家伊能忠敬は、50歳で庄屋の家業を長男に譲り第二の人生を志し、 天文・暦学を学ぶ。寛政12年(1800)、55歳の時江戸より蝦夷地に向け測量の第一歩を踏み出した。 以後17年の長きにわたり日本全国の測量を行い、我国初めての実測による当時世界最高水準の日本地図を完成した。 この間の歩み四千万歩、地球一周分の距離に及ぶ。九州には、忠敬64歳の時から高齢にも拘らず前後二回に及ぶ困難な測量作業を行った。 この小倉城下・常盤橋は、九州伊能測量の始発点であり、小倉の五街道 (長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の起点として意義深き地点である。 ここに、伊能測量開始200年を記念しその偉大な業績を讃え、顕彰碑を建立する。 平成13年9月建立(寄贈 伊能忠敬記念碑建設実行委員会の案内より)

寝ている男性が気になって、まともに写せず…。【左】1級都市基準点第2001号。

県道37号・中央銀座通り

【左】県道37号の中央銀座通りを国道199号の魚町信号へ南下。横に京町通りがある。
【真ん中&右】ちゅうぎん通りのPOP。龍が珠をくわえていた。

中の橋(太陽の橋)

北九州市役所の南東の橋。マカロニの様な人は、北九州のHPによると宇宙七曜星の精なんだとか。 たくさん並んでいて印象的(@@;)

宝来橋(月の橋)

中の橋(太陽の橋)の北側の橋。 【真ん中&右】(切り取り加工)なかなか素敵な小倉城遠景だった♪

常盤橋 ・ 他の橋 2015.7.5記

車を近くにとめているから、焦りながらの撮影になってしまった(^^;) 伊能忠敬 測量200年記念碑は、その上に男性が寝ていて、思うように写せないし…。 信号待ちの車からは、寝ている男性を写している人に見えているんじゃないかと、 気になって、イラストも各々写せなかった(TへT) 常盤橋の他にも素敵な橋が多いし、小倉城の遠景も見えて良かった♪

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