天下第一の門(冠木門) |
上格子門跡 |
馬場跡 |
永禄10年(1576)9月初日、稲葉山城を攻め
落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に
本拠を移した。稲葉山の城郭を再建すると共に
城下町の井ノ口を岐阜と改名し、楽市楽座の継続を
認めるなど美濃国の繁栄を図った。また信長は
「天下布武」の朱印を用い、岐阜城が天下統一
へ踏み出す城となった。信長の大志を讃えて
ここに冠木門を建て、その偉業を伝える。
(岐阜市の案内板より)
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城下の大手門から急坂な大手道(七曲道)を
上ってきたここに建っていた。東(右手)に
大きな岩塊、西(左手)には切り立った岩壁が
そびえたち、頂に七間櫓が築かれていた要害の場所。
関ヶ原の合戦の前哨戦となった慶長5年(1600)
8月23日の岐阜城攻略戦では、攻め上ってきた
東軍の福島正則らの軍兵と岐阜城主織田秀信軍の
将兵が、この門をめぐって激しく戦った。
(岐阜市の案内板より)
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岐阜城の郭内では唯一の平坦な土地で、
上格子門から幅3間(5.4m)長さ30間(54m)
続いている。元禄年間と推定される岐阜城
絵図の「馬場跡」に位置している。岐阜城に
詰めていた将兵が馬を繋いでいた場所とか、
乗馬の訓練をした所とか言われる。
一説には馬場ではなく、矢場であるとも言う。
(岐阜市の案内板より)
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二の丸門跡&二の丸跡 |
天守台にそびえ建つ天守閣の南西一段下に
二の丸が築かれ、更に一段下に二の丸門が
建っていた。周囲を石垣で高く積み上げ、
守りを固めている。関ヶ原合戦前哨戦となった
慶長5年(1600)8月23日の岐阜城攻略戦では、
二の丸門で激戦が繰り広げられた。この時、
門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発し、
夜空を焦がした火炎が美濃・尾張国内に
岐阜城の落城を知らしめるところとなった。
(岐阜市の案内板より)
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岐阜城資料館 |
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岐阜城天守閣から東の一段下がった
位置に20間(36m)×6間(10.8m)の
郭があり、籠めや塩・味噌を蓄えて
おく蔵と弓矢を備えた倉が建っていた
と考えられている。昭和50年(1975)4月、
岐阜市民の浄財により瓦葺き・白壁造り・
2階建ての隅櫓形式に復元した資料館を
建設した。天守閣と共に江戸時代以前の
歴史資料を所蔵・展示している。
(岐阜市の案内板より)
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お城時計 |
石垣 |
大名時計・和時計とも言う。西洋の
機械時計が日本に入ったのは、
フランシスコ・ザビエルが周防国
(現在の山口県)の大内氏に献上した
のが最初である。当時の時計は掛け式
であり、操作も複雑であった。この為
日本の時計師は工夫と改良を重ね、
日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計を
作り上げ、その精密さは世界一であった。
明治5年(1872)11月、太陰暦が太陽暦に
改められ、和時計は製作されなくなった。
岐阜城では、お城時計と称された江戸時代
前期の大型櫓時計を所蔵・展示している。
(岐阜市の案内板より)
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木下藤吉郎と千成瓢箪 |
蛙岩? |
永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎
(豊臣秀吉)は蜂須賀小六や山麓の
猟師堀尾茂助等僅か7名を従えて、
岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、
薪小屋に火を放って手柄をたてたと
伝えられている。この時、藤吉郎は
城兵を倒した鎗先に腰から下げていた
瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら
大音声で勝鬨を上げたという。以来、
千成瓢箪の発祥の地とされている。
(岐阜市の案内板より)
(右)「君には見えるか?」って、
案内板だけじゃわからなかった。これかなぁ…?
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