織田信長居館跡 | ||
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岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ケ原の合戦の前哨戦で落城するまで続くが、 これらの遺構の多くは、その出土品等から信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。 巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や |
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土塁と石列 | 掘立柱建物跡 | 巨石-A |
(左)この頃の方が、寒かったのか、 よく色付いてるなぁ〜。(左=2004.9.19撮影。巨石等は全部=2008.10.13撮影) | ||
巨石-B | 巨石-C | 巨石-D |
巨石-E | 巨石-F | 巨石-G |
信長公の宮殿へ続く通路 | ||
(左)右の写真の右の高台から。 紅葉がほんのりきれい〜♪(2008.10.13撮影) |
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入角と出角・下層石積 | ||
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下層遺構群 | ||
■2008.10.13の説明版から補足… 永禄10年(1567)の信長入城以前、ここには斎藤道三、義龍、龍興の 居城があった。見つかった階段などはその時代のものと考えられる。 斎藤時代の地面の上には炭層もみられ、信長が稲葉山城を攻略した 際、火災が起こったことを物語っている。 居館の入口は巨石列通路で大きく改変されたが、段々の地形など基本的な 部分は斎藤氏の時代に造られたと考えられる。 (案内板より) (2008.10.13撮影) |
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水路と石垣、階段跡 | ||
■2004.9.19の説明版…
通路から続く小規模な平坦地で、礎石建物跡の一部の他、
南端に上段部への上がり口、東端に水路がある。
水路は谷の中央を流れ、この平坦地の
東で「く」の字に折れる形の物。
両岸の石垣は各部分で石の積み方に違いがある。上段部への
上がり口から東へ延びる水路南岸の本格的な石垣は、
後に城郭石垣の代名詞となる「穴太(あのう)積み」の
初期の形を示している。
なお、発掘調査で上下に重なる時期の異なる
水路が発見され、上層石垣には火災の跡がある。
下層の水路は保護の為埋め戻し、各石垣の上半分は水路中に転落していた
石等で積み直した。 ■2008.10.13の説明版から… 右手の階段は、直線的に伸びることが 発掘調査で確認されている。フロイスの記録では、 信長の宮殿へ至る過程で「広い階段」を上る記述が出てくる。 (真ん中)左の写真の突き当たり。(2008.10.13撮影) |
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冠木門 | 織田信長居館跡の石碑 | |
2本の門柱の上の方に、冠木と呼ぶ横木を貫いて渡した
形式の門。千畳敷の発掘調査では門の跡が発見された事は無く、
その位置・形は不明だが、織田信長居館跡の整備にあたり、
岐阜城の館が建てられていた頃の雰囲気を伝える為、往時の姿を想定した門を設置、
史跡の入口とした。(案内板より)
(真ん中)菊人形展の屋根が、邪魔に…。 (2004.9.19&2008.10.13撮影) |
前回の方が、邪魔なもの(屋根) が無いので使用。(2004.9.19撮影) |
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■織田信長居館跡…2回目・2008.10.13記
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