関ケ原合戦
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天下分け目の合戦で有名な関ケ原合戦は、豊臣と徳川がその
運命をかけた一大決戦であった。慶長5年9月15日、
午前8時頃、井伊、松平が先ず進出して宇喜田の隊に向かって
戦端を開いた。これを見た福島の隊は、宇喜田の隊を攻撃した。
かくて戦機を得た東軍右翼の諸隊は石田、小西の隊を攻撃、
左翼の藤堂・京極の隊も大谷の隊と交戦し、戦はいよいよ
たけなわとなった。
家康は最初、桃配山にあったが、午前11時頃には、陣場野に
進出して全軍を指揮した。
松尾山上の小早川秀秋はかねてから家康に反応の約があったので、
遂に反旗を翻して大谷の隊を突いてきた。
小早川等の反応で大谷の隊が潰滅すると形成は逆転した。
そして最後に、島津惟新は東軍の中央を突破し、
伊勢街道への脱出に成功した。その結果、東軍が大勝し、徳川家康は、
2世紀半にわたる泰平の世を実現することになった。(案内板より)
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決戦地 |
西軍有利な陣形で臨んだ戦いだったが、小早川と脇坂ら4隊の
裏切りは、忽ちにして戦況を一変させた。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の配色が
濃くなり、各軍の兵士の浮足立つ中、石田隊は集中攻撃を
受けながらも、最後まで頑強に戦った。笹尾山を前にした
この辺りは、最大の激戦のあった所。(関ケ原の案内板より)
('07.11.24撮影)
(右)笹尾山。
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笹尾山 |
登山口 |
紅葉の頃 |
駐車場有り。(左)イベントの横断幕が…。
(真ん中)石田三成の陣地へ。
(2枚=2008.10.12&右=2007.11.24撮影)
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石田三成の陣跡 |
ここ笹尾山一帯の石田隊6千余は、正面に竹矢来の柵を二重に
配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、凄まじい死闘を
展開した。小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、
西軍の実践兵力は3万5千前後に激減し、西軍の敗色濃厚
となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していった。
(関ケ原町の案内板より)
(2008.10.12撮影)
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石田三成陣地の幟 |
松尾山 |
笹尾山の休憩所 |
(左)松尾山からでもヒラヒラと見えた幟。
(真ん中)なだらかな山が松尾山(小早川秀秋の陣跡)。
(2008.10.12撮影)
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笹尾山からの景色 |
(パノラマっぽく加工)
展望台の説明板とガイドを聞きながら眺めると、
より分かりやすい(^^) (2008.10.12撮影)
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蒲生郷舎(さといえ)陣跡 |
蒲生郷舎は左近と共に、三成隊の先陣として終始右翼から
奮戦激闘を続けた。その為、黒田・細川・加藤の隊は
容易に笹尾山を攻める事ができなかったのである。
しかし西軍劣勢となるや、有楽(うらく)の降伏勧告に腹を立てた
郷舎は、敵中に躍り込んだ。その後有楽の家臣に討たれ、
戦死したとも伝えられている。
(関ケ原町の案内板より)
(2008.10.12撮影)
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島 左近(勝猛…かつたけ)陣地跡 |
三成が、家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる
左近である。前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、
本戦では石田家の先手として布陣。黒田・田中らと
奮戦後、家康本陣に迫ろうとしたが、銃弾を受けて
討ち死にしたともいう。鬼の左近と称され、謎に満ちた
猛将像は、諸書に様々な姿で描かれている。
(関ケ原町の案内板より)
(2008.10.12撮影)
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竹矢来(たけやらい) |
竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのこと。
隙間が四角になったものを角矢来といい、菱形になったものは
菱矢来という。
これは敵の容易な進入を防ぐのに利用したもので、
三成は正面にこの柵を二重に巡らし、島と蒲生の指揮する
二隊を前面と中間に配し、自分自身は警固の兵と山頂に
陣取った。(関ケ原町の案内板より)
(2008.10.12&2007.11.24撮影。)
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おまけ |
紅葉が夕日に照らされて、赤々としてきれい(≧▽≦)
右は、妙に存在感のあるオブジェ。(3枚=2007.11.24撮影)
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島津義弘(惟新)陣跡 |
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道を
抑える為、ここ小池村に陣を構えた。
西軍が悉く敗退する中で、「西軍に島津あり」の
勇姿を家康に見せ付けるため、義弘は最後の賭けに出た
のである。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、
現代にまで語り継がれる「敵中突破」なのである。
(関ケ原町の案内板より)
敵中突破とは(@o@)ヒー!!
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(左)駐車場の幟。(真ん中)「島津陣地」碑。
(右)「笹尾山石田三成陣地三丁」碑。
(5枚=2008.10.12撮影)
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