松平忠吉・井伊直政の陣跡(東首塚) |
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慶長5年9月15日の合戦の役に中山道の敵を目標とする
福島、藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川などの隊、
その中央にあたるこの地に家康の四男・松平忠吉、
後の彦根城主・井伊直政が約6千の兵で陣を構えた。
午前8時頃、軍監・本多忠勝より開戦を促され、
直政、忠吉を擁して前進し、宇喜田秀家の前面に出たが、
先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて
島津義弘の隊に攻撃し、開戦の火蓋が切られた。
(案内板より)
東首塚の幟がでかっ!!首塚だけに写真はパス(^^;)
駐車スペース(駐車場?)があるので、よかった。 (2008.10.12撮影)
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徳川家康最後の陣跡(床几場) |
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戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の
東南1kmのこの地点に進出させた。
ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終わると、
部下の取って来た首を実験している。
周囲の土塁や中央の高台は、天保12年(1841)に幕府の命により、
この地の領主竹中家が築いたものである。(関ケ原町の案内板より)
(上)ここで、首実検があったんだねぇ…。
なんかちょっと怖いなぁ…(@@;)
(右)すぐ横にある関ケ原町歴史民俗資料館。関ケ原合戦の展示の他、
グッズもあって、とても賑わっていた。最後の陣跡には駐車場が
無いので、
ここにとめて見学してもいいかも。路駐も多かったけど…。(2008.10.12撮影)
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田中吉政陣跡 |
田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より
討って出る先手の兵と激突。本隊が2・300mほど引き下がる。
そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつく。というように、
両軍間で激しい白兵戦が展開されたのである。三成が
自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、
合戦後6日目のことだった。(関ケ原町の案内板より)
(右)陣跡付近の「岡山東軍烽火場四丁」石碑。
駐車場は無いので、路駐かすぐ近くの関ケ原町歴史民俗資料館へ。
(2008.10.12撮影)
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黒田長政・竹中重門の陣跡(岡山<丸山>烽火場) |
関ケ原の戦いの時、この山頂には長政と重門が陣を敷いた。
霧も晴れ上がった午前8時頃、ここから狼煙が上げられ、
東軍諸隊に攻撃の合図が出されたのである。
同時に、西軍が陣取る笹尾山、北天満山にも狼煙が立ち昇り、
東西両軍は一斉に、正面の敵との戦闘を開始した。(関ケ原町の案内板より)
(真ん中)岡山烽火場の石碑。(右)陣跡の碑。
(6枚=2008.10.12撮影)
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駐車場までの道は狭くってドキドキ(^^;)
そこからの坂もちょっときつかった…(^^;)
(幟)黒田長政&竹中重門。
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徳川家康最初の陣(桃配山) |
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慶長5年9月15日未明に、家康の配下3万余は、ここ桃配山(ももくばりやま)
周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬印を高々と
揚げ指揮にあたった。
最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと
作戦会議が開かれたと思われる。
ここにある2つの岩は、家康がその折にテーブルと腰掛に
使用したと伝えられている。(関ケ原町の案内板より)
桃配山というくらいだから、
凄い山かと思いきや。楽な見学で助かった(^m^)
ここには、最初の陣の碑が、大小2つある(^^)ちなみに、道路を挟んで
向かい側に見学者用の駐車場があるので良かった〜。(2008.10.12撮影)
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浅野幸長の陣跡(垂井一里塚) |
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幸長(よしなが)は、五奉行の1人であった浅野長政の嫡男で、
甲斐国府中16万石の領主であった。
関ケ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら、
石田三成と確執があったため東軍に属し、
その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこの辺りに
陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。
戦後、紀伊国和歌山37万6千石を与えられた。
(垂井町教育委員会の案内板より)
石碑は一里塚のもの。南側の一基だけがほぼ完全に残っているんだとか。
陣跡については、説明板がだけ。陣跡の碑も作ってくれないかなぁ〜(笑)
ちなみに、駐車場は無く、路駐して写したもの。(2008.10.12撮影)
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吉川広家の陣跡 |
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毛利元就の次男吉川元春の子、文禄・慶長の役では
石田三成と対立した。関ケ原合戦では、西軍の敗北を予想しながら
本家の輝元が西軍に属したため、主家の存続をはかり、
東軍に内通した。合戦当日、南宮山の麓に陣を構え、
毛利隊が合戦に参戦するのを押し止める役割を果たした。
しかし、合戦後は広家の思惑がはずれ、毛利氏は大幅に
領地を削減されることとなった。(垂井町教育委員会の案内板より)
高校の近くにあった陣跡。路駐して撮影〜。(2008.10.12撮影)
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長束正家の陣跡 |
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長塚正家は、文禄4年近江水口5万石の領主となり、
ついで12万石に加増され、従四位下侍従に叙任、
慶長3年(1598)7月、五奉行の一員に列せられた。
同5年関ケ原合戦では西軍に属し、9月15日の
決戦では1500人の兵と共にここ境野に陣し、
合戦前には東軍の池田輝政軍との間に銃撃戦があった。
その後、三成方の敗北を聞くと水口城に帰城したが、
池田長吉に欺かれ自殺した。(垂井町教育委員会の案内板より)
どこだろ?どこだろ?と探しまくって、
偶然見つけた(^^;) (2008.10.12撮影)
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