【金沢城 その1】

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石川県 金沢城 いしかわけん かなざわじょう
■金沢城
■金沢城公園=入園自由(休園日=無休)
入園時間=7時〜18時(10/16〜2月末)8時〜17時
■菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓=大人300円
開館時間=9時〜16時半
駐車場=兼六駐車場(有料)   (2008.7.26現在)
※ここでは、2004.5.1、2008.7.26の写真を使用。     
住所=金沢市兼六町1-4
北陸自動車道金沢西I.Cから県道25号を東へ進み、 野町小路交差点を左折、犀川大橋を超え、国道157号に入り、 香林坊交差点を右折、広坂交差点の10号を走り、 左に金沢城。兼六園駐車場へは兼六園下交差点で道なりの10号で すぐ左。

金沢城 (案内板の写真をクリック→拡大)
加賀一向一揆の本拠地、金沢御堂としての時代や 佐久間盛政の居城した時代(天正8年1580)を経て、天正11年(1583) の前田利家入城後は、加賀藩主前田家の居城として 本格的に建造が行われた。 天守閣は慶長7年(1602)の落雷による焼失後は 再建されなかったが、櫓の数は多い時では 20棟を数えたと言われ、鉛瓦や海鼠塀が貼られた石川門や 三十間長屋等、金沢城独自の威容を誇ったと伝えられている。 明治期には兵部省、昭和期には金沢大学が置かれ、現在は金沢城公園として 整備されている。(案内板より)
石川門
三の丸東端に位置し、搦手門(裏門)といわれる。 櫓と櫓を長屋で繋いだ重厚な枡形門に造られている。 目前は石川櫓で、門の出入りと石川橋方向を見渡す 着到櫓(ちゃくとうやぐら)でもあった。屋根は鉛瓦を葺いてある。 宝暦火災(1759)の後、天明8年(1788)に再建され、 現在に伝わる。昭和25年(1950)国の重要文化財に指定。 (案内板より)
(左)石川門・一の門を正面から。 夕方は、海鼠壁がよく映える♪ (真ん中)一の門(高麗門)と二の門(櫓門)。
(右)石川門・二の門(真ん中の写真右側)の石垣。積み方 や、沢山の刻印を見れて楽しい(^^)(2008.7.26撮影)
(左)朝写したら、海鼠壁の色が飛んだ…。 (真ん中) 一の門から桝形と二の門。桝形の石垣を見るのが楽しい♪
(右)三の丸から石川門・二の門。 どこから見ても、立派〜!  (真ん中=2008.7.26、他2枚=2004.5.1撮影)
幻想的な夜の石川門(2004.5.1撮影)
石川門桝形の石垣
左側が「打ち込みハギ」、右側が「切り込みハギ」の技法。 同じ場所で違う積み方をした珍しい例。 明和2年(1765)の改修時のものと考えられている。 文化年間に書かれた文書には、「左右違い分けて 積むのはおかしい」等と記されており、石垣の積み方にも いろいろなこだわりや思いが あった事がうかがえる。(案内板より)
これだけ、くっきり違うのって凄い…。不思議だなぁ(^w^) (左&真ん中=2004.5.1、右=2008.7.26撮影)
石川櫓
  石川櫓は、門の出入りと小立野方向を見渡す着至櫓でもあった。 屋根は鉛瓦を葺いてある。(案内板より)
(左)石川門・一の門と石川櫓。 (真ん中)桝形から石川門・一の門裏側と石川櫓。 (右)南西側。(2008.7.26撮影)
(右より)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓
菱櫓は、二の丸北東角にある着至櫓(ちゃくとうやぐら)で、 名前の通り櫓全体が菱形に造られており、三の丸から新丸に かけての物見と、二の丸の防御を兼ねていた。 五十間長屋は、二の丸最大の長屋で、二の丸や橋爪門周辺の 警備の役目を果たしていた。 橋爪門続櫓は、着至櫓で、橋爪門の出入りを監視する 役目を持っていた。これら3つの建造物は、資料や古写真に 基づき、文化の大火(1808)後の姿に忠実に復元した。 (案内板より)
(左)三の丸から。前日は夕方で逆光だったから、 明朝にリベンジしたけど、生憎の曇り…(^^;) (2008.7.27撮影)
(右)二の側から。凄く夏を感じさせる写真になった(笑) 大きいから遠くから写したけど、木が…。(2008.7.26撮影)
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の石垣
菱櫓や五十間長屋等の土台となっているこの付近の石垣は、 平成10年から12年にかけ、菱櫓等の復元に伴って、一旦解体された後、 積み直しが行われた。三の丸側が打ち込みハギ、 裏手の二の丸側が切り込みハギとなっている。 (案内板より)  (左)菱櫓。2004.5.1撮影。 (真ん中)夕方及び逆光…。 (右)橋爪門続櫓方面。(2枚=2008.7.26撮影)
内堀(鶴の丸付近)&鶴の丸土塀
■鶴の丸土塀…土塀の三の丸側の腰部は海鼠壁で 覆われている。鉄砲狭間は隠し狭間で、通常は海鼠壁の 板瓦でふさがれている。塀の内部には、小石が詰められている。 (案内板より) (2008.7.26撮影) ■内堀…平成11年から12年にかけ、菱櫓や 五十間長屋等とともに復元された。 寛永8年(1631)の大火の後、二の丸を守る堀として 造られたと言われている。 この付近の石垣は、明治時代に積み石の多くが取り はずされた為、五十間長屋石垣などの積み方を 手がかりにしながら、創建当時の姿を想定して 復元された。水面下に沈む数段は、往時の姿を今なお 残している。(案内板より) (真ん中)2008.7.26撮影。逆光! (右)菱櫓他室内から。(2004.5.1撮影)
橋爪門(一の門)&橋爪橋
石川門、河北門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。 二の丸の正門。内堀に架かる橋爪橋を渡り、橋爪門に入る。 櫓門を備えた重厚な桝形門に造られていた。 一の門と橋爪橋は、資料や古写真に基づき忠実に復元した。 (案内板より)

左に半分写ったものが出狭間で、 内部の鶴の丸の写真は鶴の丸で紹介。
(2008.7.26撮影)

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