数奇屋敷(2008.7.26撮影) | ||
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この付近は数奇屋といわれ、藩主の側室達の住まいがあった。 石積みの技法は、石の表面を長方形に仕上げた切り込みハギで、 刻印が見られる右側の石垣は創建時のもの。 表面がきれいに整えられて、縁取りのある左側の石垣は、 文化5年に改修されたもの。刻印は、石を切り出す時の 作業分担等を示す為に付けられたとも言われている。 (案内板より) | ||
数奇屋敷の石垣 | 切手門 | 切手門の石垣 |
(左)上部に三角を見つけた(^^) (真ん中)数奇屋敷方面を。 (右)真ん中の写真右側の石垣。(2008.7.26撮影) | ||
土橋門跡 | ||
■土橋門…由来は、北の丸と三の丸をつなぐ
土橋に面して設けられたことから。
桝形門に造られており、重厚な櫓門があった。
(案内板より)
内側から。(この段は2008.7.26撮影) |
■石垣…切り込みハギの技法が用いられている。 前の石垣に組み込まれた六角形の石(亀甲石)は、 水に親しむ亀を表したもので、防火の願いが込められている。 文化年間の大火でも、この石のおかげで土橋門の焼失が 免れたとも伝えられている。(案内板より) (真ん中)左の写真の右側。 (右)真ん中の写真を拡大。右端に亀甲石(^^)♪ | |
裏口門跡 | 裏口門跡から二の丸の石垣 | 四十間長屋跡 |
(真ん中)裏口門跡から。水堀がいい感じに♪ (右)夕方、芝生に撒かれるスプリンクラー。(2008.7.26撮影) | ||
菱櫓&二の丸側の北面石垣 | ||
三の丸側が打ち込みハギ。裏手の二の丸側が切り込みハギ。
打ち込みハギの多くは郭の外周等に、切り込みハギは出入り口等重要な
所に見られる。二の丸北面の石垣は、
形や大きさを揃えた割り石が積まれている。
打ち込みハギの中でも最も完成された物。加賀藩の石垣技術者、
後藤彦三郎は、「城内でも指折りの石垣」と褒め称えている。
石垣の上には、二の丸表能舞台の楽屋に使われた長屋が建てられていた。
(案内板より)
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河北門(かほくもん) | ||
尾坂門(大手口)から三の丸への入口にある門。
実質上の大手門にあたり、石川門・橋爪門とともに
「金沢城三御門」と呼ばれた。大きな櫓門を
備えた枡形門であり、西側の四十間長屋とともに、
北側全般の警備にあたった。(案内板より・絵図も) (左)2004.5.1の時のもの。 (右)復元されるみたい。(2008.7.26) |
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新丸広場 | ||
(2枚='08.7.26)二の丸の石垣は、暗くなったけど、 芝生がきれいだった♪ (右='04.5.1) 二の丸方面。菱櫓が♪ | ||
黒門(西丁口門)跡 | 大手堀 | |
2004.5.1に来た時は、大手堀横の歩道の木に、物凄い数の
ハトがとまっていて、びっくり(@@;)
じ〜っと見ると、 何十羽のハトがこちらを、 目を白黒させながら見てて、凄かった(^^;) 2008.7.26では、鳩の姿は無かったなぁ〜。 (左)内側。(真ん中)外側。 (右)きれい。(2008.7.26撮影) |
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大手門跡(尾坂門) | ||
■大手門…天正期、高山南坊(右近)の指導により、西丁口にあった
大手を尾坂口に移したと伝える。
大きな櫓台が残っているが、櫓や櫓門が記載された物は少なく、
門扉として木戸が設けられていた。
■石垣… 巨大な割石を使った打ち込みハギ。 巨石は「鏡石」と呼ばれ、一般には城の正面によく用いられた。 金沢城の石垣の中で最大の石も、この中に組み込まれている。 尾坂門が大手門だった事を示す一つの証拠と見られている。 刻印が見られるが、石材確保を割り当てられた、 家臣毎の識別符号といわれている。 (左)大手堀から大手門跡の石垣を。 (左下)正面の鏡石には驚き(@o@) (真ん中)左の写真の右側。ここにも! (3枚=2008.7.26&右=2004.5.1撮影) |
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尾山神社の東神門(二の丸の門) (2008.7.26撮影) | ||
桃山風御殿様式の唐門で、宝暦9年(1760)の大火で、 金沢城の大半が焼失するも、彫刻された二頭の龍が水を呼び、 類焼を免れたと言い伝えられている。 彫刻は1本の釘も使用せず、名工の作とされるも、作者不詳。 (案内板より) | ||
■金沢城…2008.7.26記(2回目)
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