トロとまったり・tripのページ(人吉城 その1)

熊本県 人吉城

くまもとけん ひとよしじょう

■人吉城(別名=三日月城、繊月城)=見学自由
■人吉城址公園
駐車場=無料駐車場

2010/5/1現在

住所=人吉市麓町
この時は、九州自動車道 人吉I.Cを下りて県道54号を、案内板に従って右へ。 道なりに県道54号を進み、五日町信号を過ぎて川を渡ると、その辺りは城跡。
※この時は、お祭り中だったので、通常の駐車場の場所がつかめず(^^;)

人吉城

小さい写真をクリック→拡大。

人吉城は、もともと平氏の代官がいた城だったが、 遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が(さがら・ながより)、 建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられている。 その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、 別名を三日月城あるいは繊月(せんげつ)城とも言う。 人吉城が資料に初めて出るのは、大永4年(1524)のことである。 この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、 素掘りの空堀や堀切によって守られていた城だった。 室町時代に球磨(くま)郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、 戦国大名として発展する。しかし、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配する事になり、 以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置県まで存続した。 人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正17年(1589)からで、何度か中断をしながらも、 51年後の寛永16年(1639)に、現在見られる石垣が完成している。 球磨(くま)川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城である。 大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200mもあり、広大である。 本丸には天守閣は建てられずに、二階建ての護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷があった。 城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれた。 水の手門近くの「武者返し」と呼ばれる石垣は、 幕末に導入された欧州の築城技術である槹出(はねだし)工法で築かれたものとして有名である。 城内の建造物は、廃藩置県の後に取り壊されて残っていないが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えている。

麓馬場
麓馬場横の堀
武家屋敷(奥)

【左】左側が御館跡。西側から麓馬場(道路)を。
【真ん中】藩武芸所跡方面。
【右】手前が御館跡、奥が武家屋敷。

藩武芸所跡

【左】麓馬場だった道路を通り、藩武芸所跡へ。
【真ん中】この時は、臨時駐車場。
【右】見上げると三の丸の石垣♪

三の丸へ

【左】藩武芸所跡から三の丸へ。
【真ん中】高いコンクリートの壁を見ながら、三の丸へ。
【右】振り返って。

三の丸・於津賀(おつが)社跡

初代・相良長頼(さがら ながより)の入国前の人吉城主であった平氏の代官の矢瀬主馬祐(やぜしゅめのすけ)を祀る霊社跡。 第2代・頼親が建立し、初めの頃、御墓(塚)大明神という。文明16年(1484)に再興され、元和年中(1620年頃)に於津賀と改め、寛永7年(1630)に造替された。 社殿は南向きで、板葺きの御殿(神殿)と添殿(拝殿)の2棟があり、現在その礎石が残っている。(人吉市教育委員会の案内板より)

【左】左手前が、於津賀社跡と礎石。前方1番高い石垣が二の丸、低い石垣は三の丸・塩蔵跡。
【真ん中】球磨川(大川)。 【右】大手門方面。

三の丸・塩蔵跡

【左】(パノラマっぽく加工)南西側の三の丸の石垣上に、塩蔵が立っていた。 
【右】イベント中でテントがいっぱい…。

塩蔵跡横の虎口(三の丸)

【左】上で紹介した塩蔵跡の左端の虎口へ。
【真ん中】虎口を入った両側も三の丸。奥が二の丸石垣。
【右】於津賀社跡方面。

虎口から二の丸西側方面(三の丸)

【左】上真ん中の写真を、角度を変えて。
【真ん中】二の丸の西側(左側の長い石垣)の三の丸へ。
【右】振り返って。

虎口から二の丸北側〜北東方面(三の丸)

【左】塩蔵側の反対側。二の丸北側(高い石垣)の三の丸。井戸跡がある。
【左下】囲われた井戸跡。奥の石垣は、中の御門跡。
【下真ん中&右下】重なっている部分があるけど、パノラマっぽく。 中の御門側の北東の三の丸で、写真の石垣は中の御門の北側。 中の御門の手前に長屋、左端から左への石垣上に十三間蔵があった。

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