人吉藩では藩内12ヶ所に米蔵を置き、このうちの間(村)蔵と大村蔵は、 それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟づつあった。 大村米御蔵(西側礎石群)には、隣接して欠米御蔵(東側礎石群)があった。 両方とも瓦葺で4間×10間の長大な建物だった。 発掘調査で「御用米」「免田納米」「上村納米」と墨書した木札が出土している。 右手の門は堀合門である。(人吉市教育委員会の案内板より)
【左&真ん中】御下門から西側へ進むと米蔵跡。
【右】堀合門よりに「人吉城跡」碑が立つ。
【左】米蔵跡から御館の堀合門方面へ。右折れで水の手門跡。
【真ん中】逆の米蔵跡方面。左が水の手門跡。右の堀合門は、石垣で隠れている。
【右】足元には相良氏の家紋「剣梅鉢」入りの案内表示が(^^)
人吉城内に入る4ヶ所の門の1つである水の手門は、正面3間の板葺建物で、 球磨川に面する水運の為の門であった事からこの名が付けられた。 中川原に常設の橋が架けられる慶長12年(1607)以前は、毎年架け替えられる仮橋の場所であった。 慶長12年から始まった人吉城外周の石垣作りでは、 球磨川端の渕は埋立てを行い、水運が利用できるように石垣設計がなされ、7ヶ所の船着場が設けられた。 水の手門外にあった船着場は、城内で最も大きな船着場で、門の周辺に置かれた米蔵等の多くの蔵への物資の搬入に利用されている。 石垣上にあった土塀は、水の手門まで作られたが、ここより上流は寛文元年(1661)に竹を植えて、 塀の代わりとしている。平成11年度の発掘調査の結果、門は大きく壊されていたが、階段や排水溝が確認された。 川側にあった船着場は石張りの傾斜面となっていて、水位の増減に対応できるように工夫されていた。(人吉市教育委員会の案内板より)
【左&右】外側&内側。
【左】城内から。
【真ん中】球磨川と梅花の渡し場。
【右】こちら側の石垣上には、土塀ではなくて、竹が植えられていたらしい。
【左】白くてビロビロ〜ッと見えるのは、ゴザ。渡し場までの滑り止め?
【真ん中】内側から。
【右】水ノ手橋方面。
正面左が水の手門、右が御館北側の武者返しの石垣。
江戸時代中期に描かれた「人吉城大絵図」によると、水の手門周辺に大村米蔵、欠米御蔵、間米蔵がある。 3棟の蔵とも切妻造瓦葺の建物である。間米蔵は、水の手門西側にあった間村の年貢米を納めたと考えられる蔵である。 南北6m×東西20m規模で、?(欠けてて見えず。3間でいいのかな?)間×10間の建物となる。 建物内部は、大型の礎石の配置から2間・3間・3間・2間と4室に区分され、床束の礎石があるので、 床板が張られた建物である。北側に米を計算する為の「斗屋・はかりや」等の小さな付属屋がつき、 南端には雨落しの溝が付属する。この蔵は、幕末の文久2年(1862)の寅助火事で焼失し、その後再建され、 明治初期の払い下げにより解体された。(人吉市教育委員会の案内板より)
【左&右】復元門。表&裏。
堀合門は城主が住む御館の北側にあった裏門で、文久2年(1862)の「寅助火事」でも焼失を逃れた。 明治4年(1871)の廃藩置県後は、城外の士族である新宮家に移築され、人吉城唯一の現存する建造物として、 市の有形文化財に指定されている。形式的には棟門と呼ばれるもので、 化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の優美な曲線が特徴的である。 門跡の発掘調査では、門柱を建てた2つの礎石跡とその両側にあった排水溝が確認された。 この門は、旧位置での発掘結果や移築され現存する門、絵図に描かれた姿に基づいて、 平成19年度に塀や排水溝と共に復元したものである。(人吉市教育委員会の案内板より)
【左】門から奥。
【右】(切り取り加工)水の手門跡から。門右側は武者返しの石垣。門が小さ…。
御館北辺の石垣上には、絵図に見える長櫓があり、文久2年(1862)の寅助火事で焼失した。 翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、その上端に槹出(はねだし)工法による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。 この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年(1853)に品川台場(東京)で初めて導入され、五稜郭(北海道)や龍岡城(長野)等の西洋式城郭で採用されており、 旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。(人吉市教育委員会の案内板より)
【左】長い!【真ん中】西側から。【右】裏側。
【左】御館跡の北西(武者返しの石垣付近)から西方面。
【真ん中】南西から西方面。長〜い!
【右】南側の堀と石垣。
【左】相良神社が建つ御館(みたち)跡。
【真ん中】藤棚の奥に石垣が♪
【右】黄色の菖蒲がきれいだったな♪
【左】御館跡にある石。【右】力石と違い、説明板が無かった。
■力石…第21代相良頼寛公の家老・相良清兵衛は、主君の2万2千石に対して8千石をも領していた権力者で、 専横の振舞いが多く、相良家ではこの権力と実力を制しきれず幕府に対して、九ヶ条の罪状をあげて訴え出た。 江戸幕府では早速、清兵衛を呼び出した。 清兵衛出立後、その留守居をしていた清兵衛の義理の子・田代半兵衛は、この主君の仕打ちに不平を抱き反抗したので、 藩では彼の屋敷を焼打ちにし、一族は悉く討死した。これを「御下(おしも)の乱」という。 その時、城内に火の手が上がったのを見て、城下の士卒は驚いて駆けつけたが、 大手の門が固く閉ざされて開かなかった為、犬童三之丞という人が、 付近にあったこの大石で門を打ち破って入り、主君の安否を気遣ったという。(案内板より)
御館(みたち)への西側の門跡。
【左】外側から。
【真ん中】内側から。
【右】真ん中の写真の左側の方。
江戸時代中頃の「人吉城大絵図」によると、球磨川と後口馬場に挟まれた区域の東部は、大台所や御厩になっていた。 敷地の広さは、東側110m・西側82m・南側70.6m・北側58mだった。平成15〜17年度の発掘調査では、4棟の建物等を確認している。 中央に位置する建物1は東西が4m・南北17mの礎石建物で、建物の西側と東側は1mの廊下となっていた。 西側にある建物2は、東西が8m・南北が6mの礎石建物で、東側に位置する建物3も同じ大きさの礎石建物である。 この2棟は、建物1を中心に対照的な位置にあり、3棟が計画的に配置された建物であった事が分かる。 建物3のすぐ北側には、東西4m・南北4mの小さな建物4が付属している。 4棟の建物は、出土遺物から文久2年(1862)「寅助火事」後の復興建物と推定されるが、建物の具体的な使い道はよくわからない。 南側にある円形井戸は、自然石を野面積みした直径1.1mの井戸で、幕末頃のものである。 周囲に幅30cmの砂漆喰が回り、漆喰の内側は石敷きのしっかりした井戸であったようである。(人吉市教育委員会の案内板より)
人吉城跡では、井戸のある地下室が2つ発見されている。 1つは、「人吉城歴史館」の中庭にある地下室遺構で、2つ目はこの大井戸遺構である。 地下室遺構は、寛永17年の「御下の乱」を描いた人吉城絵図によれば、 家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった2階建ての「持仏堂」に、 大井戸遺構は、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置に相当するようである。 2つの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、黒色の小石敷き、 その下のスギ板式など、構造が良く似ている。江戸時代の初期に建造され、 寛永17年(1640)7月の「御下の乱」の直後に破壊されて埋められていた。 特殊な目的の為に造られた井戸と推定されるが、全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構である。 今回、実物展示のため、石積みの復元修理を行い、 上部に推定される建物と同じ規模(9m×7m)の覆屋を建設し、休憩施設とした。(平成17年度国・県補助金事業)(案内板より)
【左】多門櫓側から、人吉城歴史館方面を見ると屋敷跡の表面表示が。
入れないのでズームで。
【右】市役所付近。この辺も屋敷跡なんだろうな…と思って撮影。