トロとまったり・tripのページ(福知山城 その1)

京都府 福知山城

きょうとふ ふくちやまじょう

■福知山城=見学自由
■福知山市郷土資料館・産業館=310円
開館時間=9時〜17時(入館は16時半まで)
休館日=毎週火曜(祝日の場合、翌日)年末年始
駐車場=有料駐車場(福知山城公園 観光駐車場)

2006/9/16現在

住所=福知山市内記(ないき)5番地
舞鶴若狭自動車道 福知山I.Cを下りて、国道9号を進み、東堀信号を右折し(←高架の先がまだないので)、 府道55号を進み、高架をくぐって少しして、有料駐車場の案内板が出るので左折、左側に有料駐車場。 そこから反対側に福知山城。

福知山城

【左】写真をクリック→拡大。

福知山の町は、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着手したことで始まったものと伝えられ、福知山城も光秀縁の城として知られている。 城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていなかった。 しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建された。 城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守られた要地にある。 中世には天田郡の豪族、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれている。 丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治世に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられている。 一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われている。 天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されている。 光秀は城下町を造る為に堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(税金)免除の特権を与えて、商家を育てたとも伝えられている。 その期間は短いものだったが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、 「明智光秀丹波を広め 広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれている。 光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入った。 光秀没後は、羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続いた。 関ヶ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城した。 今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定される。(福知山市の案内板より)

福知山城 ・ 福知山城公園&天守

【左】福知山城公園から福知山城方面へ続く昇龍橋と天守。
【右】角度を変えて。

【左】福知山城公園からのライトアップ。
【右】ズームだと周りが真っ暗(^^;)

昇龍橋

【左】福知山城公園から福知山城方面へ続く昇龍橋と天守。
【右】佐藤太清記念美術館付近から福知山城へ向かう坂道から昇龍橋を。

【左】(切り取り加工)左上の写真の上方の天守。
【右】昇龍橋を横から。

【左&真ん中】福知山城公園から福知山城方面へ続く橋。でも、この時は工事中…。
【右】 足元には、2匹の龍が描かれていた(^^)

公園側から城跡へ

【左】昇龍橋から北東方面の福知山城公園の碑。
【真ん中】街路樹の袂やマンホールにも福知山城が(^^)
【右】佐藤太清記念美術館。美術館も隅櫓風。最初、これも関係あるのかと(^^;)

【左】佐藤太清記念美術館の下(右上の写真の右側面)にドーンと立っている城址碑。
【真ん中】城址碑付近側から福知山城へ向かうと作られた門が出迎えてくれる…。
【右】真ん中の写真を過ぎた所から昇龍橋を。

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