トロとまったり・tripのページ(二条城 その1)

京都府 二条城

きょうとふ にじょうじょう

■元離宮二条城=600円
■本丸御殿(期間限定)=300円
入城時間=8時45分〜16時まで(閉城17時)
二の丸御殿観覧時間=9時〜16時
休城日=年末年始、7、8、12月、1月の毎週火曜(休日の場合は翌日)
駐車場=有料駐車場(入口付近)

2006/9/17現在

住所=京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
この時は東から西へ国道1号を走り、府道38号へ右折。 左に二条城が見えて来て、入口に細長く有料駐車場がある。

元離宮二条城

案内板の写真をクリック→拡大。

慶長7年(1602)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。 京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。 家康の征夷大将軍の拝賀及び二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。 その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3年(1626)、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模は最も拡大され、五層の天守閣も備えていた。 しかし、寛永3年(1750)雷火のため天守閣を焼失、また、天明8年(1788)には、市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓の多くを焼失した。 文久3年(1863)、14代将軍家茂が入城、譲位の実行を誓い、また、慶應3年(1867)には、15代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。 明治4年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治26、27年には、本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。 昭和14年(1939)、京都市の所有に移り、史跡に指定された。 城構は、平城で、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅13mないし17mの濠を廻らし、東西約480m、南北360mあり、 国宝二の丸御殿をはじめ、台所、御清所、東南・西南両隅櫓、東・北大手門、土蔵、本丸御殿などの重要文化財がある。(案内板より)

東大手門

半端じゃない大きさ!

日中も夜も、その存在感は変わらず、威圧感がある。

【左】東大手門から北方多門塀を。
【真ん中】東大手門から多門塀を。
【右】ポツンとあった旧二条離宮跡石碑。

番所&東大手門

徳川将軍不在の二条城中は、二条在番と呼ばれる江戸から派遣された大番組の武士によってその警衛の全責任が取られていた。 毎年2組(1組50人)が4月を期して交替、要所要所の番に当たった。 この番所はその番士の詰所の1つで、正面十間(19.6m)、奥行三間(6.06m)の細長い建物であり、前側の二間畳敷に門番が勤務していた。 現存の門番所は少なく貴重。(案内板より)

築地塀

俗に筋塀という。柱を建て板を芯として泥で塗り、柱と柱の間に横線を入れ、屋根を瓦で葺いた塀を言う。 古くは泥をつき固めた今の土手のようなもので、公卿、殿上人の家の囲いとして用いられた。 塀の横線を定規筋といい、御所、門跡寺院、高家の家の塀につけられた筋で、五線を最上とした。 現在京都御所、東西両本願寺門跡寺院の塀に見られる。(案内板より)

東南隅櫓

西南隅櫓と違って千鳥破風だった。

【左】内側から。
【右】ライトアップもされていた東南隅櫓。朝と夜の顔は全然違う(^^)

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