きょうとふ しょうりゅうじじょう
■勝龍寺城
■勝竜寺城公園
開園時間=9時〜18時(4月〜10月)(他は〜17時)
休園日=毎週火曜、年末年始
駐車場=無料駐車場
【左】南側の堀と南門跡。
2006/9/16現在
住所=長岡京市勝竜寺13番1号
この時は、国道9号を亀岡市から京都市へ進み、府道205号を長岡京市へ進み、府道67号を国道17号・長岡京方面へ右折。
次に、直進の府道67号を進み、市役所前交差点、駅前交差点を過ぎて、右のガソリンスタンドを過ぎ、
右カーブの信号の小さな勝竜寺の看板に従い、左の道へ戻る様に進む。
高架をくぐって信号を右折。すぐ右に見えてきて、斜め右に沿う様に入り、右折して突き当たりにP。
【左】石垣が発見された南辺の堀(上=西から、下=東南から)。(案内板より)
勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応2年(1339)に築いたといわれる。 城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷(こがなわて)を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。 応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。 戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。 天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。 ところで、この城は明智光秀の娘、玉(細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀を回らしていた。 北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。 この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえった。 これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。 その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、 石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、我国の城郭史上でも貴重なものである事が明らかにされた。(長岡京市の案内板より)
【左】案内板の写真をクリック→拡大。(案内板より)
【右】復元された勝龍寺城の総構(北から)。(案内板より)
【左】南側の堀から南門跡方面。
【右】木橋、南門跡、桝形後の凄く立派な城門と管理棟。
【左】木橋側から南門跡、桝形方面。
【右】桝形の勝龍寺城公園石碑。
【左】南門跡から桝形入って左側の城門。
【真ん中】城門の裏側。
【右】真ん中の写真の左側から城門方面。
【左】本丸北東方面。
城の心臓にあたる本丸は、東西約105m、南北約70mで、その周囲には水を湛えた幅広い堀が造られ、その内側に高く土を盛り上げた土塁を巡らしている。 堀は深さ約3mで、幅が15mを越え、土塁の裾には石垣が築かれていた。 土塁は高さ4〜5mで、四方を取り囲んでいた。しかも、最も高く築いた西辺の土塁は、四角形をした本丸の南側に張り出していた。 これは南門から攻め入ろうとする敵をこの高い土塁上から攻撃する目的があったと考えられる。 土塁南辺の中央に推定される南門の位置では、杭列や大きな石垣が見つかった。 北西隅からは石垣で築いた北門が、北東隅では土塁に登る階段が、東辺の土塁上では長屋風の建物(多聞櫓)の土台である石垣などが発見された。 本丸内では、西半部で南北方向の堀や石で蓋された溝などが、東半部で井戸二基や礎石建物三棟が見つかった。 堀は幅約4m、深さ約2mで、井戸はいずれも深さ約2m、直径0.9mの石組みのものであった。(長岡京市の案内板より)
【左】南門跡近くの管理棟。中に入るとパンフやパネル資料が見る事が出来て良かった(^^)
【右】細川忠興と玉(ガラシャ)像。