【左】案内板より。
西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦面を深さ1.5m掘りくぼめ、土塁が南北に分断されていた。 この土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、二ヶ所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。 このことから、土塁の斜面に石を使って階段を造り、土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものとみられる。 また、西辺土塁の南端で人頭大の大きな石や小石が見つかった。これらは土塁上にあった隅櫓などの建物に使われたとみられる。 (長岡京市の案内板より)
【左】本丸から沼田丸への通路方面。小屋の中に孔雀がいた!
【真ん中】左の写真から南方面で、復元図に無い冠木門がある。
【右】本丸の南西の隅櫓跡から沼田丸方面。
【左】「沼田丸の北を限る堀(東から)」(案内板より)
本丸の南西に接する沼田丸は、東西約50m、南北約65mの長方形で、周囲に土塁が築かれていた。さらに堀が外側を取り巻いていた。 堀は、昭和30年代まで水を湛えていた西南部のものに加えて、発掘調査によって北辺と東辺にも堀があることが明らかにされた。 新たに確認された堀は、いずれも幅約5m、深さ約2mのもので、石垣のない素掘りのものだった。 北辺の堀内からは大きな石が二ヶ所でまとまって発見された。 これらはこの堀の北側にあったと想定される沼田屋敷などに通じる橋等の施設に使われていたと思われる。 本丸と沼田丸の間には、両側を堀に挟まれた幅約5mの南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。 これは本丸を守るための施設であろう。また、沼田丸内の発掘調査では、本丸と同じ構造をもつ井戸が見つかった。 ところで、「沼田丸」の名は細川藤孝の妻麝香(じゃこう)の旧姓にちなんだもので、沼田氏に与えた屋敷があった所といわれる。(長岡京市の案内板より)
【左】「北へ延びる帯曲輪(南から)」(案内板より)
【真ん中】沼田丸。
【右】沼田丸と本丸の間の堀。
【左】小畑川に架かる大門橋。
■勝龍寺城大門橋の由来… 勝龍寺城は、660年昔、暦応2年(1339)南北朝時代後醍醐天皇を擁する南朝方は、男山八幡宮まで進出し、京を窺う情勢であった。 これに対抗するべく北朝方の足利尊氏は、細川頼春(細川氏遠祖)とその弟師氏に命じて、京を守る為に前線基地として勝龍寺に土塁をもって周囲を囲む城塞を築いた。 長岡京遷都(784)当時、宇波多川(小畑川)は、向日市上植野付近から東流し伏見区羽束師南部付近で桂川に合流していたとされている。 その河道を西南の方に移動して勝龍寺城の「外堀」の役目を果たしながら、大山崎町下植野付近で桂川に合流させる河川工事を担当したのが、弟の細川師氏(宝財院)といわれている。 土地の古老の言によれば「小畑川」と呼ばずに「ホウサイ川」と呼ばれていた。 細川家古文書や「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」等によれば、元亀2年(1571)織田信長の許可を得て、近世細川初代細川藤孝(幽斎)は鉄砲戦術に対応する為、「総構」を拡張する。 この処に「大手門」を構築し、現JR神足ガード付近を「搦手」とする。 以来この「大手門」に架かる橋を「大門橋」と呼称されてきた。シンボルとしてこの結界門を建立するものである。1999年7月(京都府乙訓土木事務所の案内板より)
勝龍寺城 2006.9.16記
ここは公園になってて、いい感じで整備されていた(^^)説明板もあるので散策しやすい♪ 管理棟の中に入るとパンフがあったり、パネル展示が無料で見る事が出来て良かった(^^) ここでは、多数の石仏や五輪塔等が使われていたらしく、北門の近くに集めて置かれてて、 ちょっと物々しいけど、孔雀の小屋があったり、の〜んびりした気持ちになれる城跡だった。