みやざきけん おびじょう
■飫肥城=600円(他との共通券)
開館時間=9時半〜16時半
休館日=年末年始
駐車場=飫肥観光駐車場(無料)
2011/5/3現在
住所=日南市飫肥
この時は、国道220号の海岸沿いを南下して、県道434号へ右折。
次に、小さい案内板に従って、東郷信号で、県道28号へ右折。
また案内に従い、東弁分信号で左折。橋を渡って道なりに進み、案内に従い、県道430号へ左折。
そのまま進んで、途中で県道432号になり、大手門信号を右折。
すぐ左側に駐車場の入口。お店が立ち並ぶ先を進むと駐車場。
飫肥城は、古くは「飫肥院」の跡ともいわれているが、何時頃創建されたかは明らかではない。 長禄2年(1458)島津の族将「新納忠続」を志布志城から飫肥城に移し、伊東方の押さえにしているので、 それ以前の築城と考えられている。 文明16年(1484)伊東祐国(6代佐土原城主)が、飫肥城攻防初戦を始めてから、天正15年(1587) 伊東祐兵(19代飫肥藩初代)が、豊臣秀吉の九州征討の功により、 朱印によって飫肥城に入城するまで約100年の我が国における最長攻防戦が行われたのである。 以来、約300年伊東藩の居城であった。(日南市観光協会の案内板より・古絵図は旧本丸の案内板より)
【左】とても広い駐車場なので安心♪
【真ん中】庵木瓜紋が。
【右】大手門から南へ続く通り。写真は、大手門側から。
【左】大手門前の土橋から西側方面を。
【真ん中】土橋から東側方面。
【右】南東の端。東(写真奥)へ続く空堀。
飫肥城大手門は、明治時代初めに取り壊されたが、周辺の石垣遺構や主柱の根石等を検証し、昭和53年(1978)に復元されたものである。 木造渡櫓2階建て、屋根までの高さ12m(12.3mと表記したものも)、1階は21.6u、2階は44uで、門の幅は1階7mである。 柱や梁には樹齢100年以上の飫肥杉を使用し、釘は使わない「組み式」である。 屋根は入母屋風で「庵木瓜」の鬼瓦と「月星九曜紋」の軒瓦は、いずれも「伊東家紋」である。 なお、復元工事中に、礎石に刻まれた正徳3年(1713)銘の碑文が発見され、大手門の内側に保存されている。(案内板より)
【左】大手門前に空堀がある。
【右】裏側。大手門の礎石(左側の門扉側)を見るの忘れた…。
【左】大手門の桝形へ入り、左側にそれて、石段を上がる。
【真ん中】広くなっていく石段。思い込みか、石段を上がって右にしか行けないかと思ったら、左に道が…。なんだか不思議な感じ(^^)
【右】桝形を振り返って。
【左】大手門の桝形へ入って左側。
【真ん中】左の写真の石垣。小さな▽の石に感心してしまった(^^)
【右】瓦の庵木瓜紋。
【左】大手門から石段を上がって右側を。写真奥は、本丸南東の下側で、鐘楼がある。
【右】桝形方面。
【左】大手門から石段を上がって右側へ。かなり広い敷地が開け、土塁も巡っていた。
【真ん中&右】本丸南東の石垣上の鐘楼。雨だったのでズームで(笑)だから、歴史資料館への石段を写すのを忘れた。
【左】大手門の桝形から本丸西側方面。石段を上がる前は、こちらに行けるとは思わず、観光客が歩いている事で気付いたんだけど、上がってみて、こうなっていたのかとビックリした(^^)
【右】(切り取り加工)本丸南西隅〜南の石垣。大手門から石段を上がった正面の石垣、格好いい!
【左】本丸南西隅と飫肥城歴史資料館。
【右】本丸の西側入口手前の石段。ここの石段も幅が広い。
【左】西側入口の門跡(奥)と手前の門跡と礎石。
【真ん中】桝形側から。
【右】本丸西側入口の門跡。本丸方面。
【左】本丸西側入口の門跡から石段で囲まれた桝形へ。
【右】上がって、門跡方面。
【左】左上の写真の奥側。
【真ん中】右上の写真の左側。
【右】飫肥小学校のグラウンドが本丸跡。