トロとまったり・tripのページ(飫肥城 その3)

豫章館(よしょうかん)

【左】大手門手前の豫章館。入口の門から主屋の玄関を。
【右】玄関側から。

飫肥藩主伊東祐帰が、明治2年(1869)に、城内から移り住んだ屋敷で、庭の北隅に大きな楠木があったことから豫章館と名付けられた。 この屋敷は、大手門前に位置する飫肥城下では、最も格式の高い武家屋敷である。薬医門と屋根付きの 塀に囲まれた約6500uの屋敷内には主屋、雑舎(台所・便所・納屋)、蔵、御数寄屋があり、南面に広大な枯山水の庭園が配されている。 主屋は6部屋をL字型に配し、玄関は千鳥破風の屋根を構え、表玄関と脇玄関がある。 屋根はもとは茅葺きであったが、昭和初期に瓦葺きになった。昭和58年(1983)に、伊東家より日南市に寄付された。(案内板より)

豫章館・主屋の玄関

【左】玄関の蟇股に、庵木瓜紋が。
【真ん中】(手前の屋根)九曜紋と一文字紋。
【右】(奥側)庵木瓜紋と一文字紋。

豫章館・主屋

【左】庭園から主屋を♪ 【真ん中&右】室内。

【左】(切り取り加工)庭園から主屋を見たもので、少し斜めに見るときれいに見渡せる♪
【右】横にスッとのびた松。

【左】素敵な縁側。
【真ん中】縁側側から庭園。
【右】裏門?低くなっている。

豫章館・御数寄屋

雨が強まって、ゆっくり見る余裕が無いので、ここをサッと撮影し、豫章館の見学は終了。
【右】この付近にあった門。

国際交流センター 小村記念館

国際交流センター小村記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎侯の没80周年を記念して、 小村侯の功績を後世に伝えるとともに、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点を目指して、 平成5年(1993)1月16日に開館した。建物の建築面積は、1,034uで、記念館と国際交流センターからなる。 小村侯は、20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では、全権大使としてポーツマス条約を結んだ。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得。その功績で、日本は名実ともに独立主権国家となった。 日南市では、ポーツマス条約を縁として、 米国ニューハンプシャー洲ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和60年(1985)に結んでいる。(案内板より)

旧伊東祐正家住宅

玄関の上には、庵木瓜紋が見る事が出来た(^^)

国際交流センター小村記念館を含む屋敷地は、江戸時代の初めは、松岡八郎左衛門、江戸時代末には、 川崎宮内が居住していたことが、絵図によって判明している。いずれも上級家臣である。 明治以降は、藩主であった伊東家の分家が住んだ。 現在の建物は、明治初期の火災後建てられたものであるが、江戸時代の武家屋敷の様式をよく残している。 当初は茅葺きであったが、昭和28年頃の改造で瓦葺きになるとともに、建物規模の縮小が行われた。 (日南市教育委員会の案内板より)

横馬場通り(武家屋敷通り)

【左】大手門から東側へ続く。
【右】本丸南東の空堀の角から東へ(写真は逆から)。クランクになっている。

明治維新の廃藩置県に伴い、藩士は俸録を失い、屋敷を離れた者も多かった。 ここの馬場通りは、飫肥藩士屋敷の典型的な姿を色濃く留めている。 それは、傾斜地の為、屋敷囲いに石垣を巡らしているので、原型は余り崩れていない。 また、屋敷規模も広く、一戸平均900坪で広い。(日南市観光協会の案内板より)

小村寿太郎生家

明治時代を代表する外交官小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として、現在の生誕碑の場所で生まれた。 その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂の裏に移築され、さらに、大正10年(1921)に現在地に移築されたものである。 その後は大きな改修は行われずに現在に至っている。 飫肥重要伝統的建造物群保存地区における伝統的な建築様式を現在に伝える重要な建物であり、また、飫肥が生んだ明治の大外交官小村寿太郎縁の建物としての価値も高い。 近年に空き家となって老朽化が著しくなった為、市が改修整備して、平成16年(2004)4月から公開している。(日南市教育委員会の案内板より)

旧伊東伝左衛門家

旧伊東伝左衛門家は、飫肥藩の上級家臣の典型的な住居である。 屋敷地の南面と東面は、高さ2m以上の切り石の石垣が積まれ、八幡馬場通りに面した入口は石段となっている。 建物は19世紀中頃までに建てられたと推定されている。建築材には飫肥杉を使い、床下を高くするとともに、 南面に廊下を巡らすなど、後に飫肥の住宅に見られる特徴を全て備えている。屋根はもともと茅葺きで、下屋根だけが飫肥瓦葺きであった。 建物の南には武家屋敷に典型的な枯山水の庭が造られており、外周の石垣、建物とともに飫肥藩の上級家臣の生活を知る上で重要な屋敷である。 伊東伝左衛門家は、享保6年(1721)に、家老伊東祐従の二男祐允が分家したのが始まりで、家禄は当初100石だったのが、後に150石まで加増されている。 昭和59年(1984)、日南信用金庫から日南市に寄付された。(案内板より)

横馬場&十文字馬場通り
十文字馬場通り
八幡馬場通り

【左】正面が、横馬場通り。案内板の右側が、十文字馬場通り。
【真ん中】左の写真の所から南側の十文字馬場通りを。
【右】写真正面が、八幡馬場通りで、田ノ上八幡神社がある。写真左から右が常真馬場で、写真左に進んで右側に振徳堂。

振徳堂

振徳堂は、飫肥藩の藩校として、第13代藩主伊東祐相が天保2年(1831)に建てた。 八幡通り側には、高さ3mを越える切り石の石垣が積まれ、南に面した入口には長屋門を構えている。 敷地内には主屋の他に武芸所、寮等の施設を構えていた。 振徳堂の教授には、安井滄洲、教導として安井息軒や高山信濃、落合敬助(雙石)等が任じられた。 この藩校からは、小倉処平や小村寿太郎等を輩出している。 振徳堂の建物は、西南戦争では飫肥隊の兵站部となり、以後、尋常高等小学校、青年学校を経て、 戦後は飫肥保育所をして使用されていた。 昭和51年(1976)に、飫肥城復元事業の第1号として市民の募金により修理、復元した。 (日南市観光協会の案内板より)

【左】入っていいのかな?と尻込みしつつ中へ(笑)
【真ん中】振徳堂。
【右】鬼瓦と下の装飾には、九曜紋。

西郷伝小倉処平生誕の地

【真ん中】振徳堂から西側のカーブ。写真左側の植込みに、標柱が隠れていたはず…。
【右】近辺の保育園のゾウ♪可愛い〜(^^)

飫肥城 2011.5.3記

生憎の雨だったけど、ここは見所がたくさんで、見学のし甲斐があった♪ 復元の大手門や本丸の石垣、松尾の丸も良かったし、旧本丸の石垣が凄く好きだった♪ 他にも、豫章館等、巡る所が多く、通りの名前が分かるのもいい感じ(^^) パンフによると、鯉が泳ぐ通りもあるみたい。雨だから、そこまで行かなかったけれど…(^^;) 再訪することがあれば、飫肥名物の厚焼きたまごを食べたいな〜♪ ちなみに、見学時間は、約1時間15分。

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