【左】本丸南西下付近から、松尾の丸の石垣、土塁を。
■松尾の丸御殿…飫肥城復元事業により昭和54年(1979)、江戸時代初期の書院造の御殿として、 在来工法を使用して建設された。建物は、延床面積約800uで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室等20室以上の部屋がある。 涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。 建物の設計、監修は豊後、岡城や京都二条城を参考に、故藤岡通夫博士が行った。 本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、財団法人日本船舶振興会(現日本財団)から多額の助成を受けた。 (案内板より)
【左】松尾の丸への石段。 【真ん中】玄関の外観。 【右】玄関の間。
【左】玄関の間の次の二の間。川御座船の模型「舞鶴丸」。
【真ん中】御座の間。
【右】廊下。雨が降って、しっとり。
【左】奥が御寝所、手前が二の間。
【真ん中】御寝所。
【右】二の間付近から向こう側の部屋を(^^)
【左&真ん中】松尾の丸を見学後、旧本丸へ。ここ、枝が張っていて通り辛くて、通る人達皆、ブツブツと…。
【右】旧本丸の横の空堀。
【左】石段を上がると、素敵な石垣が〜♪
【右】石垣を近くから(^^)
【左】石段を上がると桝形。旧本丸へはまた石段を上がる。
【右】桝形を振り返って。
【左】周囲の土塁。
飫肥城は、東西約750m、南北約500mの城域に、大小13の曲輪と犬馬場等からなる広大な城である。 各曲輪はシラス大地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城域において特徴的な形態である。 戦国時代には、代々島津氏一族が城主であったが、天正15年(1587)に、 飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸等の名称で呼ばれていた。 このうち、元禄6年(1693)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは、旧本丸が藩主の御殿であった。 旧本丸は、寛文2年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1686)の3度の大きな地震で地割れが発生し、移転する事になった。 (案内板より)
【左】旧本丸から桝形を見下ろして。門の礎石もあった。
【右】旧本丸の南東隅の土塁。
【左】表側。
【真ん中】裏側。旧本丸から、北側の石段を下りると門がある。
【右】門から北側の曲輪跡を。