西不明門馬出跡 | ||
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三の丸西側で北寄りに設けられ、 中規模なもので、構えは軽装である。 水野氏の時代までは「西門馬出」と記されていたが、 後に「西不明門」となった。普段は用いられず、 全くの非常用の虎口であったため「不明門」となった。 半月形の堀・土塁を要し、内に張番所・井戸・柵木戸 を構え、門台石垣の上には櫓門があった。 (松本教育委員会の案内板より・絵図も) (真ん中)正面左に税務署。 (右)天守。 | ||
北不明門馬出跡 | ||
城内の背後や搦手にあって、日常は閉め切りの門。
不浄門の別称でもある。松本城の三の丸に設けられた
四ヶ所の馬出の中で、最も小規模なもので構えも軽装である。
この外に不明門は西不明門もあったが、水野氏時代に西馬出が
かわったもので、惣構ができたときからの門は、この不明門
だけであった。
(案内碑より・絵図も)
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北門馬出跡 | ||
北門馬出は、三の丸北東隅に位置し、東門馬出についで 松本城第2の規模の馬出であり、かなり堅固な縄張りとなっている。 長方形をした堀・土塁・左右に土橋を構え、櫓門内には 番所(士番)、東側土橋端に外番所が設置され、城郭北東部を 堅く守っていた。門台石垣の上には櫓門があった。 (標柱より) この辺りかなぁ? | ||
北門大井戸 | 三の丸総堀 | |
この井戸は、明治維新を迎え、総堀が片端の堀を残して
埋め立てられ、その跡に新たに作られた突井戸である。
それ以後、湧水が豊かであり、松本城の北門脇にも
あたるので、北門の大井戸と呼ばれ、親しまれてきている。
(標柱より)
ただ、洗ってると、ビシャビシャ跳ねるから、大変だったんだけど (^^;)右は、ここからすぐ近くにある三の丸総堀。 |
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東門馬出跡 | ||
説明板の文字が光って写って無かった(TへT) ちなみに説明板は、右の写真の建物の 植木鉢に囲まれてあった(^^;) | ||
上土町(あげつちまち) | 辰巳御殿跡 | |
松本城の東側、東門前の馬出曲輪の
堀の土を揚げたところから町名となる。
あげつちまちは、惣堀の外の武家屋敷地で、
かつては牢屋もあったと記録されている。
(案内板より)
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この辺は、江戸時代に松本城の辰巳門と
城主の辰巳御殿がその偉容を誇っていた所である。
(碑より)
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大手門桝形跡 | ||
縄手付近の千歳橋にある大手門 桝形跡。説明板を写したんだけど、 なぜか遠くから写していて、 字がぼけてて読めないよ〜(TへT) いつか行く事があったら、 キッチリ写したい。 | ||
縄手と蛙 | ||
縄手は、松本城のお堀と女鳥羽川の清流に挟まれた
縄のように細く長い土手だった。
明治12年に四柱神社が建立され、縄手はその参道として、
発達。通りに沿って流れる女鳥羽川の
水辺では、河鹿蛙が美しい鳴き声を奏でていたが、
川が汚れ、河鹿蛙が上流に追いやられ、
活気も失った時期があり、かえる大明神を祀り、
もう1度水清く・活気ある通りにカエる取り組みが始まり、
以来、「かえるの街」として、現在に至る。
(ナワテ通り商業協同組合の案内板より)
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大名町大手門井戸 | 松本市制 100周年 松本市マスコットキャラクター「アルプちゃん」 | |
水野氏時代までは、大手南門通りと呼んでいた。 女鳥羽川から北側の三の丸は、上級の武士が居住する 地域で、中でもこの通りの両側は、年寄や組頭など 高禄の藩士の居住する所だった。(碑より) |
松本市制100周年記念行事(H19年5月1日〜H20年3月31日)が、
行われていたんだけど、街のあちこちに、松本市のマスコットの
アルプちゃんがいっぱい。 自販機の中に入っていたり、窓口に座っていたり…と、 凄〜く可愛かったから、松本城の本丸のお土産屋さんで 見かけたので、うちの子になって貰った(^w^) |
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■松本城・2度目…2007.7.29
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