【松代城(海津城) その1】

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長野県 松代城 ながのけん まつしろじょう
■松代城=(別名=海津城、待城、松城)=無料
開門時間=9時〜17時(入場=16時半まで)
休業日=無休
駐車場=無料駐車場       (2007.7.29現在)
住所=長野市松代町松代
この時は、上信越自動車道 長野ICを下りて、 長野インター信号で左折して県道30号へ。 長野インター南信号で国道403号へ右折。 そのまま国道403号を南下し、 荒神町信号の次の中町信号を右折し、松代駅に出たら 道を左折し、次に右折。真田宝物館駐車場を過ぎて少しして、 右折。すると、右側に駐車場、線路を挟んで正面に松代城があった。

海津城と松代城 (小さい案内板の写真2枚をクリック→拡大)
■海津城
海津城(現・松代城)は、千曲川の流れを巧みに利用して 築かれた平城で、川中島平をにらむ北側を千曲川の天然の堀で 強固に守り、本丸、二の丸の郭を配している。 海津城は、武田方の北信濃をおさえる拠点として築かれ、 高坂弾正を初代城主として、川中島合戦以降も北信濃支配の 最重要拠点の役割を担った。 城は信玄に命じられた山本勘助が、永禄元年〜3年(1558〜60)に 築城されたといわれ、築城当初は本丸、二の丸を土塁で囲んでいた と推定される。永禄4年(1561)の第四次川中島合戦では、9月9日 この城において勘助が「きつつきの戦法」を信玄に進言したと され、翌9月10日、朝霧の中、川中島平において激戦が 繰り広げられたことはあまりにも有名である。(長野市の案内板より)
■松代城
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島の合戦 の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まり といわれており、永禄3年(1560)頃に普請が完了したものと 伝えられている。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、 城主となった森忠政のころ、二の丸・三の丸を整備し、土塁を 石垣に築きなおしたものと考えられている。 名前も「待城」と改名され、その後、「松城」と呼ばれる時期を経て、 元和8年(1622)に、真田信之が上田より移封されて以降、明治の 廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となった。 松代城と改名されたのは、真田三代目藩主幸道の時。 松代城は、北西側を流れる 千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、 南側の城下に向けて二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を備えていた。 明治5年(1872)の廃城以降、建物は無くなったものの、昭和56年(1981)に 本丸を中心とした旧城郭城の一部が、新御殿とともに国史跡に指定されている。 (長野市教育委員会の案内板より・案内板も)
江戸時代末期の松代城と城下町 周辺案内図
(奥より)太鼓門&太鼓門表門(橋詰門)&太鼓門前橋
■太鼓門前橋… 太鼓門表門(橋詰門)の前には橋が架かっていた。 内堀の調査では、堀の中から30本以上の折れた橋脚を 発見した。橋脚の形状や打ち込まれた層位の違いから、 橋の架け直しが4回以上行われたことが分かった。
このことから、災害のたびに橋が崩落・破損したという 当時の史料記載を裏付けた。発見した橋脚や江戸時代末期の 絵図面をもとに、前橋を忠実に復元した。(案内板より)
(左下=早すぎて、まだ閉門中〜(笑) 下真ん中=太鼓門前橋を横から。
 右下=堀の蓮。蓮華が大きくなったような蓮だった♪)
太鼓門
■太鼓門… 太鼓門は本丸内では一番大きな門だった。 本丸大手(正面)の出入口(虎口)は、桝形に石垣をまわし、 二層の櫓門(太鼓門)と桝形門(橋詰門)の2つの門で 構成している。このような形を桝形といい、本丸を厳重に 守っていた。良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、 絵図面などから、栩葺(とちぶき…板葺)で切妻屋根の姿を忠実に 復元した。太鼓門の名は、時を告げる太鼓を備えていたことに 由来したようである。(案内板より)
(左=桝形から。真ん中=桝形から太鼓門表門(橋詰門)。右=本丸側。)
本丸
■本丸御殿跡… 本丸内には、江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための 御殿があった。調査では、建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、 享保2年(1717)の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっている。 しかし度重なる水害の影響により、明和7年(1770)に城の南西に 位置した花の丸に御殿を移した。(案内板より)
辰巳隅櫓跡 海津城址之碑
本丸南東の辰巳隅櫓跡。(左)東不明門跡付近の二の丸から見たもの。 (真ん中)本丸側から。
未申隅櫓跡&武者走り
(左)二の丸南西側から見たもの。格好いい!(※パノラマっぽく加工)  (右)本丸側から。奥が未申隅櫓跡。
戌亥隅櫓跡
本当に、格好良かった〜!どこから見ても勾配が美しい〜(^^)
■戌亥隅櫓跡… 本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は、松代城内でも古い 近世初期のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、 当時の石工の技術の高さを物語っている。 (案内板より)
(左)北側から。(右)西側の土塁と。
(左下)戌亥隅櫓台上。
(下真ん中)下を見ると、かなり急!!
(右下)西側の土塁を上から。

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