ようこそ! | 殿坂口 | |
---|---|---|
渋滞にはまりつつ写したもの(笑) (2009.4.12撮影) |
(真ん中)坂横の殿坂口の表示。
(右)殿坂とうちの車のお尻(笑) この坂を上がっていくと、大手門跡。 (2005.9.18撮影) |
|
大手門跡 | ||
(左)2005.9.18では、ハイキングをしている途中っぽい家族が、 ここでお弁当を食べていたんだよね〜(^^) | ||
築城当初、表門である大手は城の東に、裏門である搦手は
西に位置していた。ここが大手に変わったのは、幕藩体制の基盤が
揺るぎないものなってきた江戸時代の初期といわれていて、
正保年間(1644〜1648)に描かれた絵図では、城の西(現在地)
に大手門が確認できる。
廃城後、この周辺の改変は著しく、往時の様子を窺い知ることが
できないが、道路南東(右手奥)にある突き出した大きな石垣は、
大手桝形の一部と思われ、当時の石造構築物の姿を留める
貴重なものである。(案内板より)
(左下)大手門跡から殿坂口方面。 (下2枚)ここからの素敵な眺め。 (桜=2009.4.12。他=2005.9.18撮影) |
||
大手坂石垣 | ||
大手坂は高遠城の登城の為の道で、大手門(追手門) の西側に位置する。 戦国時代、武田氏が当地を治めていた頃、 大手口(正面入口) は城の東側にあった。当時、現在地周辺は城の搦手(裏口)にあたり、 城の背後を守る断崖だった。 江戸時代に入り安定した時代になると、城の西側段丘下に 新たな城下町が建設され、大手口も城の西側へ移された。 これに伴い、城と城下を結ぶ大手坂も新たに整備されたと 考えられる。高遠城跡内に現存する石垣のうち、江戸時代まで 遡るものは少なく、特にここの石垣は、絵図からも存在を 確認することができる大変貴重なものである。 (案内板より) 久しぶりに来ると、ちょっと変わってるもんだなぁ。 (2009.4.12撮影) | ||
自分坂 | ||
この坂はその昔、この付近の侍達が、 登城のための近道として、自分達で 作った坂道なので、「殿坂」に対して 自分坂と名付けたという。今も城跡へ の近道になっている。(標柱より) 花見の時期だけに、遠い駐車場へ、 とめさせられた。おかげで自分坂を 発見できた♪ (2009.4.12撮影) |
||
勘助曲輪 | ||
高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張(設計等)
をしたと伝えられている。勘助曲輪の名称は、設計者の山本勘助に
由来するが、築城当初この曲輪は無く、大手口を東側から西側へ
移した際、新たに造成されたのではないかと言われている。
かつては、ここの駐車場の中央に堀があり、南側が勘助曲輪、
北側が武家屋敷となっていた。
曲輪周囲の堀は、戦後埋め立てられ、旧高遠高校グランドとして
使われた後、現在は駐車場となっている。
勘助曲輪の広さは769坪(2,542u)で、曲輪内には櫓や
祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社等があった。
このうち、稲荷社は幕末に城下へ払い下げられ、勘助稲荷として、
相生町に祀られた。(案内板より)
|
||
グランドゲート | 西ゲート | |
どちらも勘助曲輪にあって、グランドゲートが道路側、西ゲートが奥。
でも、お花見の時期の勘助曲輪は、バス専用。 (右)西ゲートから上がると笹曲輪で、太鼓櫓がいい感じに見えるのだ。 (2枚=2005.9.18、右=2009.1.12撮影) |
||
犬走と第4駐車場 | ||
城の防備施設の1つであるが、この三の丸の東北側や
下方にある。
城壁や土塁の外側と堀との間に約1m位の幅の平らな道をめぐらした所を
「犬走」といった。攻撃してくる寄手(敵)の行動が鈍り、
敵の姿がここで露出するので防ぐのに役立ったのである。
この辺りから、搦手門跡付近まで、その形がおぼろげながら残っている。
(標柱より)
|
||
搦手門跡付近?の空堀 | ||
(左&真ん中)北ゲートより東へ向かうと、大きな空堀が (^^)搦手? (右)駐車場付近の桜♪(2009.4.12撮影) | ||
【 長野のもくじ 】 | ■ 上へ ■ |