伝・高遠城大手門・縮小(表&裏) | ||
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この門は高遠高等学校が、この地にあった昭和59年(1984)まで
正門として使用されていた。
明治5年(1872)新政府から城郭の取り壊しを命ぜられ、
城の建造物や樹木は、競売に付され全て取り払われた。
当時、城内には大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門
(間口5〜6間、奥行2間の二層門)があったが、いずれも
競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。
この門は、そのうちの1つで大手門といわれているが、
その形は切り詰められ当時の姿ではない。
昭和29年(1954)に高遠高等学校の正門として、伊那市
富県北福地の所有者より寄贈を受け移築されたものである。
(案内板より)
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三の丸 | ||
大手門をくぐると三の丸で、反対側には勘助曲輪。
(左)春は一面に桜!!(2009.4.12撮影) (真ん中&右)草がボーボーの9月! 足を草に絡めつつ、1段高い石垣があるので…上へ。(2005.9.18撮影) |
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進徳館 | ||
進徳館は、高遠藩主内藤頼直が前藩主頼寧の意志を受け継ぎ、
藩士中村元起の熱望により大学頭林復斎の助言を得て万延元年
(1806)3月曲輪内三の丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて
創設した藩学校である。
頼直が「興国の基礎は藩士を養成するにあり、藩士を養成するには文武を奨励するより
先なるはなし。」と藩学校設立の趣意を説き、老職岡野小平治を文武総裁に任じ、
中村元起、海野幸成を文学師範に命じて和学、漢学その他筆学、
兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、柔術、後に洋学を講ぜしめた。
優秀なる教授を網羅して、進歩的な教育が行われ、多くの偉材を育成し、
特に教育界に中堅人物を輩出した。
旧進徳館の主要建物は八棟造り、平家萱葺きで現存するものは前通りの
東西二棟と玄関及び表門で、その他は明治4年(1871)閉鎖後取り払われた。
前通り西棟は聖廟、総裁、学監教授方師範詰所、教場、生徒控所等を含んだ
講堂で東棟は生徒控所であった。進徳館は松代文武学校と共に、
信濃藩学中その遺構を最もよく存するもので貴重な史跡である。
(案内板より)
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教授玄関 | 生徒玄関 | 生徒控所 |
瓦 | 進徳館裏手にある建物 | 進徳館の下から見た石垣 |
二の丸と三の丸の土橋(北口) | ||
(真ん中)2005.9.18は朝8時半に到着。さすがに人は
少なく、城跡を巡る目的の人は自分達含め、3組くらい(笑) (右)お花見の時期は、こんなに人がいっぱい! この橋って横から見ると石垣がいい感じ。(左&右=2009.4.12撮影) |
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二の丸と三の丸との空堀 | ||
高遠閣の裏の空堀を道路から。(左)東側。(真ん中)北側。 道路から写すと人がいないので、桜と空堀がいい感じ!(2009.4.12撮影) |
北口の橋から西方面。 (2005.9.18撮影) |
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(左&真ん中)高遠閣の裏側から、東側の空堀を。北方面と南方面。 (右)南へ進むと土塁が。(2009.4.12撮影) | ||
北ゲート | ||
(左&真ん中)北ゲートにたくさん貼ってあったのは、 保科正之公のポスター。(2005.9.18撮影) | ||
高遠閣 | 高遠城跡石碑 | |
この建物は、間口14間(25.4m)、 奥行9間(16.4m)、峯高10間(18.2m) 木造総2階建、入母屋造、鉄板葺 (建築当時はこけら葺)の建物で、 大正・昭和初期の希有の建物とし、 平成14年8月21日に国の登録有形 文化財として登録された。 (案内板より) |
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二の丸跡 | ||
本丸の北から東に巡っている曲輪で倉庫、役所、馬屋、馬見所などがあった所。 また広場もあって、出征の時や行列を作る時などは、 ここに集合し隊伍を整えて出発した。高遠閣の裏手から東側堀端には 土手が残っていて、当時の状態をうかがうことが出来る。 (案内板より) (左)とても静か…。(2009.4.5撮影) (右)花見時期になると足の踏み場も無いくらい人が多いっ!(2009.4.12撮影) (左下)二の丸と南曲輪間の土橋。 (下真ん中)二の丸と南曲輪間の空堀。 (右下)天下第一の桜碑。 (下3枚=2005.9.18撮影) |
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桜雲橋(おううんきょう) | ||
二の丸と本丸に架かり、問屋門が 立つ。秋は木だらけで見えにくい。 (上2枚=2005.9.18撮影) (右上)で、桜がツボミの時に。 (2009.4.5撮影) 桜で埋もれる橋と石垣(^^) (2009.4.12撮影) |
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