新潟県 樺沢城 |
■樺沢城(別名=樺野沢城)=見学自由 駐車場=無料駐車場 (2010.7.31現在) |
住所=南魚沼市樺野沢 この時は、国道17号を北上し、上越国際スキー場入口信号を左折。 そのまま道なりに進んで、高架をくぐり、案内に従って左折。 道なりに進み、左側の城跡の登り口を過ぎて、少し先の左側に駐車場。 |
樺沢城 | ||
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南北時代は、新田義貞の家臣の田中右ェ門尉の居城で鞠子城という。
上杉時代は、樺沢城という。初めは、坂戸城主長尾氏の番城であったが、
上杉謙信の越後平定以後、春日山城の番城となり、上杉軍団関東征旅の
宿城となった。城代は、栗林・黒金・宮嶋・登坂氏が当たった。
御館の乱では、景虎を救援する為に、関東から侵攻した北条氏がここを攻略。
その後、景勝方の反撃により落城し、再び上杉氏の番城となった。
慶長3年(1598)の景勝の会津移封の直後に廃城となった。
(樺沢城跡保存会の案内板より)
(曲輪の呼び名)当地では、本丸・二の丸・三の丸などの呼び名を 伝承として、次のように伝え受け継いでいる。 ゴテン=本丸(実城)、四天=帯曲輪(裏まで巡っている。)、 三天=帯曲輪の下、通称 袖曲輪、二天=二の丸、 一天=三の丸、ヨーゲ=西の丸・要害 |
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下屋敷跡 | ||
下屋敷跡は、領主の住んでいた御屋敷跡と同じ段丘にあり、背後の五十寺沢
より流れ出る湧き水は、夏も枯れることなく飲用水として利されてきた。
屋敷は、中屋敷側にあって、上杉氏の会津移封後は、百姓が移り住んだ。
下屋敷から山裾にかけて領主の財源であった白布の原料、青苧畑が広がり、
漆木も植えられていた。栃窪峠へ抜ける道が通り、長享2年(1488)に京都の
僧万里集九も、この道を通った。
(樺沢城跡保存会の案内板より)
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駐車場 | 城之腰跡 | 東登口方面へ |
(左)東登口と龍澤寺を過ぎて、少し先にある。 (真ん中)駐車場と反対側。墓地が…。 (右)東登口へと戻る。 | ||
東登口 | 元屋敷跡 | 振り返って |
(左)上越線敷設での便宜上の登り口。 (真ん中)東登口から入ってすぐ左側。 (右)少し進んで、東登口方面を。 | ||
仙桃院のお花畑跡 | 館跡 | 電車 |
(左)写真真ん中の看板の左下一帯が跡で、
一部電車線路敷に。ちなみに、龍澤寺付近に石碑が置かれていた。 (真ん中)左前方70m先が館跡(お花畑の写真の奥の看板)。 赤のラインの電車と一緒に♪ (右)こっちは緑のライン♪ |
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梟の木彫り | 空堀と土塁 | 振り返って |
(左)せっせと上がると、出迎えてくれる。 (真ん中)右側の切れ目が空堀、手前が土塁。 (右)振り返るとよくわかる♪ | ||
土塁と空堀 | |
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(左上)土塁の間の細い道を進む。 こんもりした土塁や空堀の後に、 こんなに素敵な土塁が(≧▽≦) (右上)左上の写真の先の望楼 上から。 (左)左上の写真の奥。ちょっと した坂で、先が見えづらい感じ! (右)振り返って。 |
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望楼 | ||
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(左上&上真ん中)視界が開けた 先を進むと、小高くて細長い土塁 が待っていた(^^) (右上)望楼と反対側の三の丸へ 向かう新登り道から。見下ろすと、 高さがあることがよく分かる。 (左)望楼上には、こんな案内が。 (右)その矢印の先の景色は…。 |
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望楼側から大手道方面 | 土塁&空堀 | 大手道方面 |
(左)望楼の奥へ進むと、本来の三の丸への道の大手道方面。 (真ん中)左の写真奥。 (右)草が凄いぞ(笑) | ||
大手口 | 三の丸の虎口 | 三の丸 |
本来の三の丸への道。今回は、新登り口から上がり、 西の丸から戻る時に、大手口を写したけれど、 ここで紹介。 | ||
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