【春日山城 その1】

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新潟県 春日山城 にいがたけん かすがやまじょう
■春日山城=見学自由
■上杉謙信公銅像
駐車場=無料           (2006.7.31現在)
※春日山城のページを作るにあたって…
 2003.9.22(朝)、2006.7.31(昼)の写真を使用。
住所=上越市中屋敷
北陸自動車道の上越IC〜国道18号〜下源入交差点を国道8号へ左折。 県道63号との信号の次の、国府信号を県道185号へ左折。 次に県道180号へ右折で進むと春日山城に到着するし、 もう少し先に進み、春日山町信号を右折して進むと、 左手に大手道。ここのポストのガイドマップを貰うとわかりやすい。

春日山城 (写真をクリック→拡大)
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600 年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。
その後、謙信公の父為景公・謙信公・景勝公の3代にわたり普 請に努め、現在見られる様な大城郭になったと考えられている。 特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に 巡らされた総延長1200mの総構え(通称監物堀)。 関東官領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい 大城郭と言える。(案内板より)
上杉謙信
謙信公は享禄3年(1530)、越後守護代長尾為景の末子として 生まれ、7歳の時林泉寺に入り、名僧天室光育から厳しく文武の道を習った。 14歳で元服して長尾景虎と名乗り、19歳で兄晴景に替わって 越後守護代になった。以後、越後統一、信濃・関東・北陸への出兵が生涯続く。 永禄4年(1561)に鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉姓と関東管領職を上杉憲政から譲られ、上杉氏を名乗る。 天文22年(1553)と永禄2年(1559)の2度にわたって上洛し、天皇や将軍に拝謁して、 深く信頼される。 武田信玄と5度も川中島で戦っていながら、かえって信玄に救援の塩を送ったり、 また領土的野心で戦をしたことは1度も無かったといわれる。 天正6年(1578)、関東出兵を前にして、突然、49歳の生涯を終える。
春日山を遠くから 大手道
春日神社の反対側の道から春日山。 春日山のアップは1番上の写真(^^) この道は、江戸時代に描かれた春日山城の古絵図に大手道と記載されている 事から、当時の人達もここを春日山城の正面玄関口と考えていた事が分かる。 (案内板より)
すもう場 馬場 駐車場
道中、下にはすもう場が(^^) 駐車場は手前にもあるけど、茶屋の前の1番近い駐車場にとめた。
春日山城址碑 縦堀 甘糟近江守宅跡
謙信公の下の城址碑。そこから左へ行くと、 真ん中の写真の階段に着く。 ■甘糟近江守宅跡…甘糟近江守は、永禄4年9月10日の川中島の合戦の際、 信玄得意の啄木戦法による迂回軍の進路を阻み、奮戦し その名を馳せた勇将。(案内板より)  ここに?って場所。
三の丸屋敷跡 米蔵跡 土塁跡
「米蔵跡」「三郎景虎屋敷跡」等を総称して「三の丸屋敷跡」と呼ぶ。 それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「三の丸屋敷跡」の東 端に入口が設けられ、今も道が残っている。(案内板より) 春日山では最も良好な状態で土塁が残る。「米蔵跡」の名が示すように、 城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。(案内板より) 郭を普請する際、削平した時に出た土を盛り堅め、防御の役割 を果たした。当時は各郭にこのような土塁が築かれ、春日山城の 守備を一層強固にしていたと想像される。(案内板より)
上杉三郎影虎屋敷跡
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で敗れた悲劇の武将三郎景虎。 小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来た。謙信から景虎の名を与えられた 事でも、人質としては破格の待遇であった事がわかる。また、美男として伝えられている。 跡目争いでは越後国外からの人質であった為か次第に援助の武将も離れ、最後は自害して 一生を終えた。小説「炎の蜃気楼」で、現代に蘇った景虎が美しい男性として描かれて人気を 博している。近年、春日山城で最も賑わいを見せている郭の一つ。(案内板より)
縦堀
山城には尾根を分断して敵の侵入を防ぐ堀切と、深い沢を造って 郭を独立させる縦堀の二つの形式の堀があった。この縦堀は、山裾 の対馬谷から二の丸の直下にまで延びてくるもので、三の丸や二の 丸の防備の為に掘られたものと考えられる。自然の沢をうまく利用し ながら人の手を加えて、要害にふさわしい堅固な守りにしている。 今は400年経て草木が生い茂るが当時は掘られた岩盤が露出、滑っ て登れるものでなかった。(案内板より)
二の丸屋敷跡
本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り 巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成している。 本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護とし て造作された事を示すものと考えられる。古絵図には、「御二階」「台所」と 記された物もあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っている事も当時 の二の丸における生活を知る手掛かりとなっている。
二の丸から本丸を見上げる 二の丸から本丸への道 本丸への虎口
二の丸から本丸を見上げると、草が刈られて、むき出した土塁が。 少し前だったら、凄かったんだろうな〜(^^;)
本丸跡(右下=本丸から二の丸)
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所。 標高180mの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と 周辺の山々の支城跡や日本海が一望できる。 関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長二年 (1597)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観と殆ど変わらない。 (案内板より)
本丸跡からの景色
昔と殆ど変らないというこの景色を、謙信公達が見ていたんだな〜って思うと、嬉しくて嬉しくて(^^)

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