【春日山城 その2】

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天守閣跡 天守閣跡から本丸方面 本丸虎口(井戸曲輪側)
本丸より少しだけ段差がある天守台。天守台と本丸の後ろには、 井戸曲輪がある。
井戸曲輪跡 油流し
廃城後、400年の星霜を経て、今なお満々と水を湛える大井戸は、 春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。 城の古絵図にもここだけが、井戸がある事を示しており、古くから 注目されていたことがわかる。 どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、 西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が仂いて、水が 湧くとのことである。なお、数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や 杓等がみつかっている。(案内板より) 本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて、「油流し」 と呼ばれている。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように 滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれない。(案内板より)
井戸曲輪と鐘桜の間の虎口 井戸曲輪と鐘桜の間の堀? 鐘桜跡
井戸曲輪の奥へ進むも、こんな虎口を見てしまうと、 道はあるんだろうか…なんて 不安も感じた(笑)
景勝屋敷跡 景勝屋敷跡の虎口?(内側&外側)
「御館の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した 景勝公の屋敷と伝えられている。景勝公は謙信公の姉、千桃院の子で、 直江山城守兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の1人にまでなった。 景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は総じて大規模で、尾根を巧みに利用して 段を削出し、数段で1つの屋敷が形成されている。 春日山神社から谷愛宕にかけての屋敷跡群が雛壇状に並んで造られている のとは対照的である。景勝屋敷を中心とする屋敷跡群が地形に逆らわず、 定型化していないのは、春日山城の古い段階での普請を示しているといえる。 (案内板より)
御成街道
時の関白近衛前嗣が通ったことから、御成街道と呼ばれている。 謙信は二度の上洛を通じて、前嗣と親交を暖めた。お互いに年も近く、 酒が好きだったといわれている。謙信が、後奈良天皇・正親町天皇と 拝謁できたのも前嗣の力添えによるものだった。 前嗣は、永禄3年(1560)謙信を頼って越後府中に下向し、3年間滞在した。 当時、京都に次ぐ大都市といわれ、繁栄の極みにあった越後府中文化は、 前嗣の来訪によりさらに、洗練されることになった。(案内板より)
柿崎和泉守屋敷跡
上杉謙信の重臣柿崎景家の屋敷跡と伝えられる春日山城で最も大きな郭の 1つである。また、城内の山地で唯一ハンノキが自生する場所で、植性から 水分を多量に含む土地であったことがわかる。ここに池、もしくは水堀が あったことが考えられる。池であったとすれば、春日山城で唯一庭園を 合わせもった郭の景観が想像される。屋敷へは、大手道から木橋をかけた 南側の空堀を渡って入るように古絵図に描かれている。 また郭の東側を通り、景勝屋敷へ登る古道も残っている。(案内板より)
大手道 南三の丸屋敷跡 大手道
■南三の丸屋敷跡… 「ジョウ(城)の畑」と呼ばれ、古くから城内と意識されてきた。 土塁や堀で区画された屋敷が連なり、春日山城の最も重要な屋敷が 集まっていたようである。 城の東側裾野から本丸へ至る大手道は、この屋敷に入るところで門が 作られ、更に西側の上正善寺に至る道にも門があり、道以外は 急な斜面を造って敵の侵入を防ぐようになっている。 この付近から西側の屋敷は「ジョウ(城) のソデ(外)」と呼ばれ、城外と考えられていたようだが、 城の範囲は西側に及んでいる。(案内板より)
大手道 番所跡
■番所跡…大手道の中程、本丸を初めて目前にする地点にあって「番所跡」と 伝えられている。標柱のある小山は木戸が造られていた土塁の跡で、 門があったのであろう。(案内板より)
 (大手道)アップダウンが激しい大手道。 (番所跡)草だらけで見えない(^^;)
大手道
真ん中の写真辺りで、カメラのシャッターが下りなくなった! 何かの力か!?そして最初の大手道へ到着〜(^^)

・・・本丸から下へ(全部2003.9.22撮影)・・・ 

護摩堂跡 諏訪堂跡
謙信が出陣前に毘沙門堂に籠った事はよく知られているが、戦勝や息 災を祈祷したのが護摩堂。護摩の修法(すほう)は、毘沙門天の信仰と ともに謙信が真言密教を深く信仰していた事を如実に物語っている。 (案内板より)
   (護摩堂跡の下の方にある→)
毘沙門堂跡
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50cm)が 安置されている。尊像は景勝公の時会津を経て米沢に移ったが、嘉永2年 の火災で傷んだ。昭和3年に第15代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、 名称高村光雲先生が一年余を費やして修理した。その際先生は 御分身を作り、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて同5年3月に完成し、 当市(当時春日村)に寄進した。翌6年11月に、昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安したのである。 毘沙門天は悪魔を降ろす神。謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、 毘の字の旗を陣頭にかざし、また事ある時は堂前で諸将に誓を 立てさせた。毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもあった。 この尊像は多聞天のお姿。公は王城の北方を守る意気をもっていたものと 思われる。(案内板より)
直江屋敷跡 虎口 帯郭
上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が造られている。 現在は遊歩道があって使われなくなったが、郭と郭を繋ぐ古道も残っている。直江家は上杉謙信の父為景 の代から重臣として仕え、山城守兼継は謙信の跡目を継いだ景勝の家老として活躍した。景勝が会津へ国 替えになった時に同行し、米沢藩30万石の城主となった。(案内板より) 城に入る玄関にあたる所を「虎口」。 この虎口は、敵が城内に直進出来なくする為、食い違いになるよう工夫 されている。春日山城は、謙信の頃に拡大され、壮大な城郭になったと 考えられているが、かつてここまでが城の範囲であったと推測される。 (案内板より) 山城によく見られるもので、郭の周りにある斜面の中程を水平な帯状に削り出した平坦面を言う。 特に重要な郭を防御する為に造られたと考えられ、春日山城では本丸周辺と、 直江屋敷を取り巻くように造られている。(案内板より)
空堀
ここは通称搦手、或いは附内口で、春日山神社の郭を経て 謙信の銅像の裏から登る道がここに通じている。それを断ち切る のがこの空堀で、平素は橋がかかっていた。 (案内板より)
千貫門跡
春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門。 今でも門が建っていたと考えられる部 分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。三方が 土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切り通しがある。 これは空堀の底で、侵入者 を空堀から急峻な崖下に落とそうとしたものだろう。周到に計画された普請は、本丸と千貫門の 外とを区画する重要な地点であった事をうかがわせる。(案内板より)

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