鮫ヶ尾城
(縄張図をクリック→拡大)
|
■上杉謙信と上杉景虎…
三郎景虎は、相模の戦国大名北条氏康の7男として生まれ、
永禄12年(1569)の北条氏と上杉氏の同盟成立を受けて
越後に入り、謙信の養子となり、景虎と名付けられた。
この同盟は、翌年に解消されたが、景虎は相模に送り返される事もなく、その後も
謙信の姪(長尾政景の娘。上杉景勝の姉または妹)を
妻として迎え厚遇され続け、春日山二ノ丸に居を構えていた。
■御館の乱決戦の地 鮫ヶ尾城…
天正6年(1578)3月、春日山城内で上杉謙信が後継者を明確に
しないまま急逝したため、2人の養子の「景虎」と「景勝」が
家督をめぐって越後の勢力を二分して争った。
この争いを景虎方が拠点とした「御館」にちなんで
「御館の乱」と呼ぶ。
劣勢となった景虎は僅かな手勢で鮫ヶ尾城に立て籠もったが、
勢いに乗る景勝方の総攻撃に耐えることができず、
天正7年(1579)3月24日に鮫ヶ尾城にて自害した。
鮫ヶ尾城はこの時の戦火で落城したと伝えられ、現在も当時の
姿を忠実に留めている。
鮫ヶ尾城将「堀江宗親(むねちか)」の居館跡とされる
「立ノ内館跡(たてのうちやかたあと)」
の一角に所在する勝福寺では、当地で非業の最期を遂げた景虎の
命日を新暦の4月29日と定め、毎年法要が営まれている。
(案内板より・絵図も)
|
|
|
|
遠景 |
拡大 |
幟 |
(左)低い山が鮫ヶ尾城で、1番高い所が本丸。
(真ん中)20倍ズームで見ると、本丸の東屋が♪
(右)「鮫ヶ尾城跡」。
|
|
|
|
駐車場 |
斐太歴史の里へ |
入口 |
(左)広い駐車場。
(真ん中)駐車場から少し歩いて斐太歴史の里へ。
え?と思うけど、ここに鮫ヶ尾城跡がある。
|
|
|
|
池沿いの道へ(東登城道方面へ) |
淡水魚の池・宮内池 |
(左&真ん中)右上の写真の入口から左奥に、池沿いの道の
入口がある。ここから行くはずだったのに、
見落としてしまい、北登城道方面まで行ってしまった(^^;)
でも、案内所でパンフが貰えたからよかった(^^)
|
|
|
|
案内所 |
北登城道口と城址碑 |
城址碑 |
案内所(←パンフあり♪)を過ぎると、北登城道口。
今回は、大変そうな東登城道から上り、
下りを北登城道で戻った。
|
|
|
|
東登城道 |
(左)この時は、北登城道側にいたので、
東登城道を目指すべく、宮内池の西側の道を歩いて東登城道口へ。
ぬかるんで大変だった…。(真ん中)曲輪のような広くなった所も。
(右)少し歩いて、振り返るとぐねぐね。
|
|
|
|
大堀切6 |
(左)木には、見落としそうな表示。
(真ん中)大堀切6から大堀切5方面へ。ちょっとした急坂(^^;)
(右)振り返って。
|
|
|
|
大堀切5 |
|
(左)大堀切6からすぐに大堀切5。
汗をフキフキ、大堀切6からの急坂を
上がり終えると、手に持っていたパンフが無い!
振り向くと、落ちてる…。
仕方が無いので、取りに戻るために下って、また登るハメに…(^^;)
(左下&下真ん中)左上の写真の左右の堀切。分かりやすい♪
(右下)振り返って。こちらから見ると、微妙かな?
|
|
|
|