【鮫ヶ尾城 その1】

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新潟県 鮫ヶ尾城 にいがたけん さめがおじょう
■鮫ヶ尾城=見学自由
■斐太歴史の里
駐車場=無料駐車場       (2010.7.29現在)
住所=妙高市宮内・雪森 
この時は、国道18号を南下し、乙吉信号で県道 63号へ(飛田方向)右折。 案内に従って、すぐの信号で県道85号へ。 後は案内に従いつつ道なりに進み、 神社を過ぎて左折、左の坂を上がって右側に、 斐田歴史の里の駐車場。

鮫ヶ尾城 (縄張図をクリック→拡大)
■上杉謙信と上杉景虎… 三郎景虎は、相模の戦国大名北条氏康の7男として生まれ、 永禄12年(1569)の北条氏と上杉氏の同盟成立を受けて 越後に入り、謙信の養子となり、景虎と名付けられた。 この同盟は、翌年に解消されたが、景虎は相模に送り返される事もなく、その後も 謙信の姪(長尾政景の娘。上杉景勝の姉または妹)を 妻として迎え厚遇され続け、春日山二ノ丸に居を構えていた。
■御館の乱決戦の地 鮫ヶ尾城… 天正6年(1578)3月、春日山城内で上杉謙信が後継者を明確に しないまま急逝したため、2人の養子の「景虎」と「景勝」が 家督をめぐって越後の勢力を二分して争った。 この争いを景虎方が拠点とした「御館」にちなんで 「御館の乱」と呼ぶ。 劣勢となった景虎は僅かな手勢で鮫ヶ尾城に立て籠もったが、 勢いに乗る景勝方の総攻撃に耐えることができず、 天正7年(1579)3月24日に鮫ヶ尾城にて自害した。 鮫ヶ尾城はこの時の戦火で落城したと伝えられ、現在も当時の 姿を忠実に留めている。 鮫ヶ尾城将「堀江宗親(むねちか)」の居館跡とされる 「立ノ内館跡(たてのうちやかたあと)」 の一角に所在する勝福寺では、当地で非業の最期を遂げた景虎の 命日を新暦の4月29日と定め、毎年法要が営まれている。 (案内板より・絵図も)
遠景 拡大
(左)低い山が鮫ヶ尾城で、1番高い所が本丸。 (真ん中)20倍ズームで見ると、本丸の東屋が♪ (右)「鮫ヶ尾城跡」。
駐車場 斐太歴史の里へ 入口
(左)広い駐車場。 (真ん中)駐車場から少し歩いて斐太歴史の里へ。 え?と思うけど、ここに鮫ヶ尾城跡がある。
池沿いの道へ(東登城道方面へ) 淡水魚の池・宮内池
(左&真ん中)右上の写真の入口から左奥に、池沿いの道の 入口がある。ここから行くはずだったのに、
見落としてしまい、北登城道方面まで行ってしまった(^^;) でも、案内所でパンフが貰えたからよかった(^^)
案内所 北登城道口と城址碑 城址碑
案内所(←パンフあり♪)を過ぎると、北登城道口。 今回は、大変そうな東登城道から上り、 下りを北登城道で戻った。
東登城道
(左)この時は、北登城道側にいたので、 東登城道を目指すべく、宮内池の西側の道を歩いて東登城道口へ。
ぬかるんで大変だった…。(真ん中)曲輪のような広くなった所も。 (右)少し歩いて、振り返るとぐねぐね。
大堀切6
(左)木には、見落としそうな表示。 (真ん中)大堀切6から大堀切5方面へ。ちょっとした急坂(^^;) (右)振り返って。
大堀切5
 (左)大堀切6からすぐに大堀切5。 汗をフキフキ、大堀切6からの急坂を
 上がり終えると、手に持っていたパンフが無い! 振り向くと、落ちてる…。
 仕方が無いので、取りに戻るために下って、また登るハメに…(^^;)
 (左下&下真ん中)左上の写真の左右の堀切。分かりやすい♪
 (右下)振り返って。こちらから見ると、微妙かな?

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