二ノ丸 |
N175曲輪(通称二ノ丸跡)は、北遺構群(N群)に
属する標高約175mの地点に位置する曲輪である。
発掘調査により、曲輪の中央に約8.6m×約5.1m、
広さ約13坪の掘立柱建物が1棟存在し、その周辺に
投石用の飛礫石が集積されていた事がわかった。
被熱した陶磁器片が散乱した状態で多数出土した事から、
天正7年(1579)の御館の乱の戦火で落城し、
そのまま廃城になった事がうかがえる。
もう1段下のN167曲輪(通称三ノ丸跡)からは、
全国的にも珍しい炭化した握り飯が形を留めた
状態で出土した。
(妙高市教育委員会の案内板より)
(真ん中)本丸の土塁を見上げて。
(右)二ノ丸から分岐点方面。
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腰曲輪 |
(左)分岐点から。正面が本丸で、本丸を反時計回りに腰曲輪。
(真ん中)本丸入口。右下に腰曲輪。
(右)腰曲輪。
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本丸 |
標高185mの山頂(通称本丸跡)は眺望に優れ、
日本海から信越国境の関田山脈までを一望する事ができる。
山頂周辺の尾根筋に主要な曲輪や堀切が集中的に配置され、
籠城する為の空間として入念に整備されている。
御館の乱以後、火事場整理を経て再利用された形跡が
ないことから、謙信時代の姿を忠実に留める山城として
高く評価することができる。
(妙高市教育委員会の案内板より)
(左&真ん中)急な本丸虎口。
(右)本丸は2段になっていて、虎口側が低く、
奥が高くなっていた。写真は奥から。
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(パノラマっぽく加工)曇っているのが残念なくらい、眺望がいい(^w^)
ただ、毘の文字が濡れて怖い事に…(^^;)
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(左)東屋がある。おかげで、通り雨の雨宿りができた(^^)
(真ん中)城址碑。
(右)鮫ヶ尾城跡の標柱。
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大堀切2 |
(左)米倉(左側)と本丸(右側)の大堀切!
(真ん中)米倉を正面に左側。木漏れ日がいい感じ♪
(右)本丸方面。
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米倉跡 |
(左)本丸から。手前が大堀切2。
滑りそうでドキドキしつつ、大堀切を渡り米倉へ。
(右)堀切から見上げて。こんもり。
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分岐点〜北登城道 |
(左)帰りは、分岐点から北登城道を下った。
(真ん中)九十九折の道。
(右)本丸、米倉、西の丸への分岐点。
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景虎の清水 |
見上げて |
北登城道口 |
(左)近寄り難い雰囲気の中、ポツン。
(真ん中)大きい葉だから、通り雨が助かった。
(右)案内所側の登城口に到着。
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斐太遺跡群 斐太遺跡 |
(左)斐太遺跡群 斐太遺跡の碑。
(真ん中)竪穴式住居。
(右)鮫ヶ尾城の麓等に、遺跡跡が残っているらしい。
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勝福寺の上杉景虎像 |
立ノ内(館ノ内) |
「たてのうち」と呼ばれるこの畑一体
と周辺は、戦国時代に鮫ヶ尾城の
「館」があったところである。館とは、
防御施設を備えた豪族や官吏等の
邸宅の事で、平常時は城主が起居
してこの地域の行政を行うが、戦が
始まると本城(鮫ヶ尾城)に居を
移して防御を固め、戦の指揮を
とった。(妙高市教育委員会の案内板より)
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