【新発田城 その2】

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本丸
本丸は城主の居住地であるが、攻防戦の際には最後の根城となる。 新発田城の本丸には、出入口として表門と裏門があり、櫓としては 鉄砲櫓、三階櫓、折掛櫓、辰巳櫓があった。居館である本丸御殿は 柿葺きの二階建てで、室数は130に及んだ。毎月1日などの他、 年始、七夕、重陽の節供の日には藩士が総登城して藩主に 挨拶する事になっていた。 (新発田市教育委員会の標柱より)

(左)曇天でしっとり。(2010.7.30撮影)
(右)本丸北部分は自衛隊!物々しい車がズラリと並んでる。 (2006.7.30撮影)
本丸の土塁 初代藩主 溝口秀勝侯像 辰巳櫓休憩所「城南庵」
石垣内部構造
新発田城の石垣には、市内古寺に産出する「古寺(ふるでら)石」が使われ
ている。この石は、粒の粗いカンラン石、輝石、斜長石などの鉱物からなる
「玄武岩」の一種で、マグマが地下の浅所や地表近くまで上昇し、既存の
地層や岩石中に入り、冷却して固まってできたものである。石垣積みの技法
は、石の形を丁寧に整え、石と石の間を隙間無く積み合わせた「切り込み
はぎ」を用いている。また、石垣の隅角には、直角体の石を交互に組み合わ
せて積んだ「算木積み」を用いている。表面の幅よりも中部に食い込んだ
「ひかえ」の部分が長く、間に栗石が積み込まれている。 (案内板より)
辰巳櫓
表門に向かって正面右手、本丸から見て南東(辰巳)の位置にあり、 本造の二層二階櫓で、入母屋造、本瓦葺である。 かつて、赤穂義士堀部安兵衛の父が管理責任者で、櫓の焼失の 責任を取って浪人となった。その後、安兵衛は、家名再興のため 江戸に出て、高田馬場の敵討によって名を挙げた。平成16年6月に復元。 (新発田市教育委員会の案内板より)

(左上)辰巳櫓は海鼠壁じゃないから、真っ白(^^)
(上真ん中)溝口氏の五階菱の幟。三階櫓がちらり(^w^)
(右上)入口のフクロウ。
(下3枚)室内。右下は、礎石!川原石だからツルツル。
(左上、左、下2枚=2006.7.30、他=2010.7.30撮影。)
旧二ノ丸隅櫓(鉄砲櫓跡)
二ノ丸から三階櫓を見ている時、旧二ノ丸隅櫓が見えないし、 ここから三階櫓が見えない。石垣の長さにビックリ(^^;)
桁行5間半(約9.9m)梁間4間半(約 8.1m)入母屋造の二層二階櫓。寛文 8年(1668)の大火後再建された。 二ノ丸北部にあった物を、昭和34年 (1959)から昭和35年にかけて解体 修理を行い、本丸鉄砲櫓跡の現在 地に移築したもので、腰回りは瓦 張りの海鼠壁に仕上げられている。 (新発田市教育委員会の案内板より)
下3枚='10.7.30、他='06.7.30撮影

■新発田城…2010.7.30記
久々に、新潟の城巡りをするので、折角なので フラリと寄ってみた♪曇天だから、 写真は微妙だけど(笑)相変わらず、櫓が格好よかった♪ 土橋門跡の雰囲気もよかったし(^^)福勝寺の 新発田重家像を見に行ったら、道が狭いのに、路駐が多くて苦労した。 …うちもしたけど(笑)
(写真)福勝寺の山門前の新発田重家像。

■新発田城…2006.7.30記
隅の櫓が見えない石垣の長さにビックリ(^^;)しかも、 三階櫓には鯱が三体!こんなお城があったとは。 それに、寒冷地特有の海鼠壁(模様みたいなやつ)が 櫓にも門にも映えて素敵!今回、閉門30分前に到着、 駆け足で見たんだけど、辰巳櫓の中でガイドの方の、 お話がとっても面白くて、もっと聞きたかったな(^^) 閉門後、自衛隊の周りをぐる〜っと散策、案内板巡り。 少し離れた所にもあるから、見つけるのも楽しかった♪

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