稲荷門跡 | 丑寅櫓跡 | 二の丸隅櫓跡(正面奥) |
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新発田城稲荷門は、古丸北東角に位置し、高麗門が単独で設置されていた。 築城の際には設けられていなかったが、享保4年(1719)の大火災後の再建において、 新たに設けられた。城の北東(現八幡神社周辺)に位置していた宝積院へ短距離で 移動する為の門として設けられたものと思われる。 (新発田城を愛する会の案内板より) | 新発田城丑寅櫓は、古丸北東角に位置し、L字型の特異な平面を持つ二階建の 櫓だった。正保元年(1644)に作成された絵図面にこの櫓を確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代と享保4年(1719)4代溝口重雄侯の 時代に大火があったが、幸いにもこの櫓は焼失を免れた。 (新発田城を愛する会の案内板より) | 二ノ丸北側に位置する二階建の櫓で、別名乾櫓ともいい、 現在、本丸表門の西側(旧鉄砲櫓跡)に移築復元されている。 正保元年(1644)に作成された絵図面にこの櫓を確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代にあった大火後、ここから東へ 移動した位置に再建されたが、最終的には再びこの位置に移築された。 (新発田城を愛する会の案内板より) |
西の門跡(正面向かって右斜め遥か奥) | 陸上自衛隊新発田駐屯地入口 | |
二ノ丸西側に位置し、櫓門を含めた枡形を形成することにより、 堂々たる門構えを備えていた。 正保元年(1644)に作成された絵図面にこの門を確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代と享保4年(1719)4代溝口重雄侯の 時代に大火によって焼失したが、その都度再建された。(新発田城を愛する会の案内板より) | ||
西の門脇櫓跡 (正面向かって右斜め遥か奥) |
外ヶ輪(とがわ) | 片田町(かただまち) |
二ノ丸西側出隅部に位置する二階建の櫓で、西の門を守る櫓として設置されていた。 正保元年(1644)に作成された絵図面にこの櫓を確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代、享保4年(1719)4代溝口重雄侯の時代、 そして廷和3年(1803)10代溝口直諒侯の時代に、それぞれ焼失したが、 その都度再建された。(新発田城を愛する会の案内板より) |
本丸は、二ノ丸によって取り囲まれていた。その二ノ丸の北部及び東部を囲む
かたちで帯状の細長い町、外ヶ輪があった。外ヶ輪とは外曲輪、つまり「外の郭」
を意味する。この町は中級の家中(藩士)屋敷町であり、堀部安兵衛の生誕の
地である。(新発田市教育委員会の標柱より)
城下町を巡る時、こういう何でもない所を 写す姿を見られると恥ずかしい。→ |
本丸の南西にあたる中級の家中(藩士)屋敷町で、築城当初片方が田、一方だけが
屋敷となっていたので、片田町と呼ばれたという。この町は二ノ丸を取り囲む
外堀に面しており、この外堀を越えて二ノ丸の重臣の屋敷や本丸の櫓・石垣
等を垣間見る事が出来た。
(新発田市教育委員会の標柱より)
「何を撮っているんだ?」って顔をされると、 そこから逃げ出したくなる(^^;) |
菅原門跡(前面道路右側) | 西櫓跡(向かって右斜め奥) | 大手中ノ門(看板を背に左奥) |
三ノ丸北西角に位置し、別名を「鍛冶口門」という。 正保元年(1644)に作成された絵図面にこの門を確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代、享保4年(1719)4代溝口重雄侯の時代 にあった大火によって焼失したが、その都度再建された。 (新発田城を愛する会の案内板より) | 二ノ丸南西角に位置する二階建の櫓で、大手中ノ門の左右を守る 櫓の1つとして設置されていた。 正保元年(1644)に作成された絵図面に確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代にあった大火によって焼失したが、 元禄13年(1700)までには再建されたと考えられる。 (新発田城を愛する会の案内板より) | 二ノ丸南側の大手口に位置し、高麗門と櫓門による枡形を形成することにより、 二ノ丸の正面入口として堂々たる門構えを備えていた。 正保元年(1644)に作成された絵図面に確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代にあった大火によって焼失したが、 元禄13年(1700)までには再建されたと考えられる。 (新発田城を愛する会の案内板より) |
三ノ丸(文化会館&郵便局) | ||
追手門(現警察署の所)を通り抜け左折すると一直線の道で、二ノ丸の 中ノ門を通って本丸に達する藩の正面道路である。 三ノ丸には、溝口半左衛門、溝口伊織等の家老や重臣の屋敷が連なっていた。 現新発田郵便局の所には、明治初年の藩政改革で治政庁が置かれた。 それ以前は、町・郡・寺社・勘定等の各奉行所がここにあった。 (新発田市教育委員会の標柱より) | ||
大手櫓跡(正面向かって右斜め奥) | 反対側の新発田警察署 | |
三ノ丸南側に位置する二階建の櫓で、新発田城の正面入口にあたる 大手門を守る重要な櫓だった。 正保元年(1644)に作成された絵図面に確認する事ができ、 これ以前に創建されたものと考えられる。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代と享保4年(1719)4代溝口重雄侯の 時代に大火によって焼失したが、その都度再建された。 (新発田城を愛する会の案内板より) | ||
大手門(正面向かって左斜め奥) | ||
(右の写真)白い車の横に建つ建物の所に、案内板があった。そこを遠くから。 | 三ノ丸南側に位置し、新発田城の正面入口にあたる。別名「大手町口門」 「追手門」という。築城当初は櫓門のみ設置されていたが、 寛政7年(1795)の時点では高麗門を併設する枡形門に改められ、 堂々たる門構えを備える事となった。 寛文8年(1668)3代溝口宣直侯の時代と享保4年(1719)4代溝口重雄侯の 時代に大火によって焼失したが、その都度再建された。 (新発田城を愛する会の案内板より) | |
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