トロとまったり・tripのページ(高槻城 その1)

大阪府 高槻城

おおさかふ たかつきじょう

■高槻城=見学自由
■高槻城公園(旧城跡公園)
駐車場=無し
【左】高槻城公園(旧城跡公園)。

2006/11/24現在

住所=高槻市城内町
(最寄=名神高速道路 茨木I.C) 国道171号を東へ進み、府道16号と府道128号との高槻市役所前交差点を過ぎて、少しして北大手信号を右折。 少し進むと道なりに左折になって、その後、右折。左の第一中学校を過ぎた所が高槻城公園(旧城跡公園)。

高槻城

(写真をクリック→拡大)高槻城のいろいろ。(2006/11/24撮影)

【左】八丁松原から城内へ向かう行列を描いた高槻城絵図=奥田氏蔵〜案内板より〜

高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。 永禄12年(1569)には和田惟政(これまさ)が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。 キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。 その後は、豊臣氏、徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。 そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。 明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。 昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。 本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。他、破却された石垣は、ガード下等に使用されている。 (大阪府教育委員会・高槻市教育委員会の案内板より・絵図も)

高槻城 ・ 二ノ丸

【切り取り加工】高槻商工会議所側から。 写真左側から奥が厩郭、堀跡(道路・他)を挟んで右側、二ノ丸北側(手前)〜南方面。 右奥に見えるのが槻の木高校の建物で本丸跡。(2006/11/24撮影)

【左】第一中学校(写真右側)の横、厩郭と二ノ丸との堀跡(道路・他)側から二ノ丸東側から北方面。前方に見える建物辺りが三ノ丸。(2006/11/24撮影)
【右】左の写真の左側。二ノ丸の東側から西方面。(2006/11/24撮影)

高槻城 ・ 二ノ丸と本丸の間

【切り取り加工】二ノ丸南東と本丸北東の間の堀跡付近。写真左が基礎石(根石)、右が高槻城跡石碑。(2006/11/24撮影)

【左】高槻城跡石碑。(2006/11/24撮影)
【真ん中】基礎石(根石)。(2006/11/24撮影)
【右】二ノ丸南東(写真右手前)と厩郭の間の堀跡で、写真右側に城址碑等がある。(2006/11/24撮影)

高槻城 ・ 本丸

【左】二ノ丸跡から本丸跡(白い建物=槻の木高校)方面。(2006/11/24撮影)
【右】(切り取り加工)高槻商工会議所側から。 写真左側から奥が厩郭、堀跡(道路・他)を挟んで右側、二ノ丸北側(手前)〜南方面。 右奥に見えるのが槻の木高校の建物で本丸跡。(2006/11/24撮影)

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