【左】高槻商工会議所前。(2006/11/24撮影)
これらの石は、昭和60年夏、市立第一中学校体育館の新築工事に先立つ発掘調査で出土した。 いずれも花崗岩で、近世高槻城の厩郭桝形門の石垣に使われていたとみられる。 調査では、中世高槻城の井戸や溝なども検出し、石は、近世の東側内堀跡から見つかった。 明治7年(1874)の高槻城破却時に、堀底へ落ち込んだものと思われる。 右側は、木津川上流の山城賀茂、左側は瀬戸内から搬入され、矢穴列(石を割る際にあけた穴の列) の形状から、江戸時代初期に切り出されたことが判る。(高槻市教育委員会の案内板より)
【左】厩郭の北西の堀跡(道路・他)付近の高槻商工会議所側から。
写真左奥がしろあと歴史館で三ノ丸の北西付近、中央の建物から右奥に続くのが厩郭。
右奥へ進むと公園へ。(2006/11/24撮影)
【右】(切り取り加工)高槻商工会議所側から。
写真左側から奥が厩郭、堀跡(道路・他)を挟んで右側、二ノ丸北側(手前)〜南方面。
右奥に見えるのが槻の木高校の建物で本丸跡。(2006/11/24撮影)
【左】左上の写真の中央の建物から右奥(第一中学校)へ続く厩郭。(2006/11/24撮影)
【真ん中】厩郭の第一中学校。(2006/11/24撮影)
【右】写真右端の厩郭との堀跡(道路・他)の左側が二ノ丸。(2006/11/24撮影)
【左】第一中学校の南西付近の公園入口方面。二ノ丸南東(写真右手前)と厩郭(写真左側)の間の堀跡。
写真右側に城址碑等がある。(2006/11/24撮影)
【真ん中】公園の入口で厩廓部分。左の写真の中央からやや右側。(2006/11/24撮影)
【右】真ん中の写真の裏側付近(だったかな?)の高槻城跡碑。(2006/11/24撮影)
【左】模擬石垣。この辺りは、厩郭というより堀跡や弁財天を祭った所(幕末期の城下図によると)かな…。(2006/11/24撮影)
【右】高山右近像。(2006/11/24撮影)
【左&右】厩郭の南側付近かな?(2006/11/24撮影)
【左】夕方で暗い像を写すのは、少し怖い(^^;)写真は明るく加工。(2006/11/24撮影)
高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山で生まれたとされている。 右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵、荒木村重と結び、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573)右近は高槻城主となった。 摂津国主である荒木村重が織田信長に反旗を翻した天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質に出していた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめた。 これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれる。 その後、右近は、山崎合戦には、秀吉に仕え功績を挙げた。 右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間だった。 右近は、千利休の七哲の1人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれている。 天正14年頃、秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していた。 キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努めた。 当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれている。 秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されている。 禁教令を出した徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けた。 マニラ到着後、40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月5日に亡くなった。(高槻市教育委員会の案内板より)
【切り取り加工】公園内から西を向いて弁財天郭方面。(2006/11/24撮影)