トロとまったり・tripのページ(上杉景勝陣 その3)

上杉景勝陣 ・ 陣跡(北側の分岐〜南下)

【左】北側の分岐方面で、矢印方面へ進んで陣跡へ。(2018/1/4撮影)
【真ん中】左の写真の先の道。こちらも陣跡の範囲。(2018/1/4撮影)
【右】左の写真から曲がって。奥に道が続いているか不安だったけど、大丈夫だった。(2018/1/4撮影)

【左】右上の写真を進んで右側を。(2018/1/4撮影)
【真ん中】進んで…。(2018/1/4撮影)
【右】真ん中の写真を進んだ先から、左の写真部分を振り返って。(2018/1/4撮影)

【左】右上の写真と同じ方向を。赤と青の矢印の道しるべ(写真左寄り)を見つけて、この道、通っていいんだ…と一安心。 でも、ここまでの道をまず知らないと分からない気が…。(2018/1/4撮影)
【真ん中】地図では載っていない道を進むと、視界が開ける。(2018/1/4撮影)
【右】振り返って。こうやって見ると、視界は開けても、草は凄いな…(^^;)(2018/1/4撮影)

【左】この付近に、上杉景勝陣の説明板がある。(2018/1/4撮影)
【真ん中】左の写真の左側だったかな?(2018/1/4撮影)
【右】左の写真の所から、こんもりした木々の所のNo.126陣を。(2018/1/4撮影)

上杉景勝陣 ・ 陣跡内の説明板

左上の写真付近にあった説明板。肥前名護屋城図屏風絵図に描かれている上杉陣(左下)と直江陣(右上)。

■上杉景勝陣跡…上杉景勝は、上杉謙信の甥(姉の子)で用紙になった人物である。 上杉家内部の家督争いに勝利し当主となり、織田信長と争いながら領地を広げた。 豊臣秀吉の天下統一に伴い家臣となり、のちに秀吉の命により越後から会津120万石に加増移封され、会津中納言と呼ばれた。 文禄・慶長の役では、軍役5,000人で、家老の直江兼続とともに名護屋へ参陣している。 豊臣政権の中で五大老も務めた。 豊臣秀吉死後は、徳川家康と対立を深め、石田三成や佐竹義宣らと協調して行動した。 徳川家康の上杉征伐では、伊達政宗や最上義光らと戦ったが、関ケ原の合戦で西軍が敗れ、米沢藩30万石に減移封となった。 陣跡は地元では、「越後軍」と呼ばれている。中心部は長方形状で、高さ3m弱の石垣が巡り、場所によっては鏡石を使用している箇所もある。 陣跡としては大規模な部類で、西側には家老の直江兼続陣跡もある。(説明板より)

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