トロとまったり・tripのページ(獅子ヶ城 その1)

佐賀県 獅子ヶ城

さがけん ししがじょう

■獅子ヶ城(別名=獅子城)=見学自由
駐車場=無料駐車場
(写真)一の曲輪の石垣と調馬場。

2013/6/21現在

住所=唐津市厳木町浪瀬
この時は、国道203号を厳木駅から西へ進んで、ウツボ木信号で県道32号を南下、 厳木バイパスをくぐり、右奥に見える鶴田神社を過ぎて、少し先の右側に入口の碑がある。 (※見落とし注意。)

獅子ヶ城

小さな縄張り図の写真をクリック→拡大

獅子ヶ城は標高228m。 「松浦記集成」によれば、治承から文治年間(1177〜1190)頃、 松浦党の祖源久(ひさし)の孫に当たる源披(ひらく)が築城したが、 披の子源持(たもつ)の代になって平戸へ移り住んだ為、廃城となったと伝えられている。 室町時代後期、この地方は波多氏を頭とする松浦党の勢力と、 対する龍造寺氏の勢力とが競合する地域となった。そこで松浦党一統は協議し、 武勇の誉れ高い鶴田兵庫介源前(すすむ)(後に越前守)を獅子ヶ城に城主に任じ、 天文14年(1545)に旧城を改築して守りに就かせたという。 越前守源前は龍造寺隆信と再三にわたる戦の後、天正年間(1573〜92)初め頃に和を結んだ。 そして、長子鶴田上総介源賢時にいたり、 龍造寺氏の出である多久安順に仕えて別府(東多久)に移ったので、 以後、獅子ヶ城は廃城になったという。 波多氏改易後の上松浦一円を所領した唐津藩初代の寺沢氏は、当初家臣を獅子ヶ城においた。 その際に獅子ヶ城を現在見られる石垣造りの城に改造し、 瓦葺きの建物、櫓、門等を建てたようである。 大坂夏の陣(1615)以降、全国の城郭の多くが破却されだす頃、 寺沢氏も同様に獅子ヶ城を破却し、古城番として監視の武士を岩屋村に常駐させたようである。 後に唐津藩代々の藩主も古城番を置いたが、文化14年(1817)に幕府領となった際に、 古城番は廃止されたと伝えられている。(唐津市教育委員会の案内板・他より)

獅子城入口
入口の碑
道中

【左】写真の碑の奥へ進む。墓地の下。
【真ん中】奥に見えるのは、駐車場や本丸の案内板。
【右】山道を進む。

駐車場
三の丸への入口
振り返って

【左】背後に凄い巨岩!ちなみに、車の左側は落石注意ゾーン。
【真ん中】入口の階段。
【右】入口から振り返って。右奥が出丸。

三の丸へ

三の丸は周囲の殆どを、石垣を用いて築き、より堅固にしている。 三の丸では、東の端に城の出入口となる虎口があり、 南の端には見張りの為の櫓跡がある。(厳木町教育委員会の案内板より)

【左】駐車場から三の丸への階段を上がると、巨岩が! 写真は、その巨岩と南三の丸の東側を見下ろして。
【真ん中】階段を上ると目の前に、また巨岩が! しかもその巨岩の上が二の丸とは!凄い!
【右】北三の丸方面。

北三の丸・南側の石垣

【左】駐車場から階段を上がっている最中から見えていた石垣。
【右】左の写真の石垣♪凄く素敵!

北三の丸

【左】左側の崖上が二の丸、下側が北三の丸、右奥が虎口。
【真ん中】北三の丸。
【右】丸くなった石垣。

北三の丸・虎口

【左】岩の右奥が虎口。
【真ん中】虎口に近付いて。雨なので撮影のみ。
【右】虎口から北三の丸。

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