【川越城 その2】

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・本丸御殿の左側の道を進み、右に曲がって歩いて行くと、 右に富士見櫓がある。

富士見櫓跡
御嶽(おんたけ)神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の 富士見櫓が建てられていた所。 櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見、或いは防戦の足場として、 城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣の無かった 川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に 三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が 天守閣の代わりとなっていたと思われる。 今日では木々や建物の為、すっかり眺望も失われたが、 その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り、遠く富士山まで も望めたことであろう。元来、城の構造及び建造物は戦略上の 都合もあって、その大部分が明らかにされる事は無く、正確な規模は 分からないが、江戸末期の慶応2年(1866)に川越城を測量した時の 記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと 記されている。(埼玉県の案内板より)
(左)住宅地に生い茂る木のある場所が富士見櫓跡。 でも、石碑周りは茂りすぎ(^^;)
(左下)富士見櫓跡の石碑。 (下真ん中)階段を上って…。 (右下)何かを祀ってた雰囲気…。
(左)周りはこんな感じに。 (真ん中)こんなスペースも。 (右)側にあった田曲輪門跡。

・本丸御殿の左側の道を進み、富士見櫓と反対で、 左に曲がって歩いて行く。        上へ

天神曲輪にある「通りゃんせ」の三芳野神社
三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の 天神曲輪に建てられている。この為、「お城の天神さま」として 親しまれている。この天神様にお参りするには、川越城の南大手門より 入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、更に天神門をくぐり、 東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する道を通ってお参りしていた。 この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれる 伝説の地である。なお、 参道は、江戸時代より若干変化している。

この参道が「通りゃんせ」の唄われた神社だと思うと、とても不思議な感じ。 幼き日に歌っていた時は、天神様なんて漠然としていたのに(^^) そういえば、ここにある公園で、おじいさんが、ブランコに乗った孫に向かって、 「もっと!もっとこぐんだ!違う!もっともっと!」とスパルタしていた。凄いなぁ、ブランコ如きに。 熱血おじいちゃん(^^;)

・市役所の南側の道を東へ進み、右側に中ノ門堀跡がある。        上へ

中ノ門跡と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・ 道灌父子によって築城された。 当時、持朝は古賀公方足利成氏(しげうじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、 川越城の築城はこれに備えたものである。 天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、 同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとする。 しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては、 前田利家に攻められて落城する。 江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、 親藩・譜代の大名が藩主に任じられた。 寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、 川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたった。 中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられる。 まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのである。 現在地の辺りには、名前の由来となった中ノ門が建てられていた。 多賀谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、 屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、 桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模だった。 棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、 土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていた。 ※門の扉には、江戸時代の和釘を再現し、使用している。 (埼玉県の案内板より・中之御門東西棟図も)
(左下)民家の間で見落としやすい(^^;) (下真ん中)冠木門の奥に中ノ門堀。 (右下)中ノ門堀を背後に。
中ノ門堀
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から 城内に攻め込んだ場合を想定して造られている。 西大手門から本丸(博物館方面)を目指して侵入した敵は 中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できない。 進撃の歩みがゆるんだところに、 城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかける仕組みだった。 また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかった。 中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、 東側の法面勾配は60度、西側は30度だった。 つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、 敵の行く手を阻んでいたのである。 明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、 中ノ門堀をは旧城内の残る唯一の堀跡となった。 川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという 声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備を行った。 (案内板より・図も)

                     ・市役所                    上へ

市役所にある太田道灌の像&川越城図の石碑&大手門跡
市役所の向かい側にあるコインパーキングの列や、 交差点の車の視線が痛かった(^^;)

・時の鐘           上へ

時の鐘
駐車場=なし(付近の有料駐車場)
住所=埼玉県川越市幸町15-2
寛永年間の頃、川越城主・酒井忠勝が建てたといわれる。
400年近く昔から、城下町に時を知らせてきた川越のシンボル。 現在のものは4代目といわれ、櫓の高さは奈良の大仏と 同じだそうだ。今も1日に4回、午前6時、正午、午後3時、 午後6時に、市民に時を知らせている。 江戸時代初期から時を告げてきた「時の鐘」。 環境庁は、全国各地で人々が地域のシンボルとして 大切にし、将来に残していきたいと願っている音の 聞こえる環境(音風景)を「残したい日本の音風景百選」としてこの 時の鐘が認定された。
鐘の音を聞く事は無かったけど、大きさにはビックリ。 しかも人の多さにもビックリ。
隣で売ってた「いもソフトクリーム」を食べたんだけど、 とっても、美味しかった〜!

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