しまねけん つわのじょう
■津和野城(別名=三本松城、蕗城)=見学無料
■津和野町城跡観光リフト=往復450円
営業時間=10時〜17時(不定休)
駐車場=無料(有料も多々あり)
※遠景以外のページは、2006/1/1、8/14撮影の写真を使用。
2006/8/14現在
住所=鹿足郡津和野町後田
この時は、山口県から島根県へ国道9号をひたすら進み、
道の駅長門峡を過ぎ、国道315号の交差点を過ぎ、
道の駅願成就温泉を過ぎ、もう少し国道9号を進むと、
左に朱塗の大鳥居があるので、そこをくぐって坂道を下りる。
下りきってT字を、左折。その後すぐ右折。
川を渡り、少し進んで右に太鼓稲成神社。
T字で左折後、右に曲がり損ねても、どこかで右折して川を渡って、
右に進めば、左に太鼓稲成神社。
津和野城は最初、「一本松城」のちに「三本松城」または「蕗城」「たく吾城」ともいい、日本を代表する山城である。 城山の標高は367mあり、城郭としての機能は城山北側の永明寺の裏山、蕪坂峠のあたりにまで及び、 東西南三方の天険と、町中を流れる津和野川を堀として利用した天然の要害である。 築城は、2度目の蒙古襲来(弘安の役)の後に、能登の国(石川県)から西石見の沿岸防備の為に入部した吉見頼行により永仁3年(1295)に始められ、 正中元年(1324)2代目頼直の時に完成したと伝えられる。以後吉見氏14代、320年間の居城であった。 実際の合戦の記録としては、戦国時代、天文23年(1554)に、周防・長門(山口県)の守護大名であった大内義隆を討った陶晴賢による攻城戦があり、この時104日間の籠城に耐えた。 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍についた吉見氏は敗戦し長門へ退転、 その後、坂崎出羽守直盛が入城したが、坂崎氏はいわゆる「千姫事件」により断絶、その治世はわずか16年間であった。 しかし、この間、坂崎氏は出丸の築城をはじめ城の改築整備を行ったほか、現在残っている城下町の基本的な形を造った。 元和3年(1617)、坂崎氏の後に因幡鹿野(鳥取県鹿野町)から亀井政矩が入城し、以後明治維新に至るまでのおよそ250年間、亀井氏11代により津和野藩は治められた。 明治7年(1874)、城下の人々に惜しまれつつ、天守閣等の建物は解体されたが、山頂には700年の長い歴史を物語る数多くの遺構が残されており、頂上からの展望は絶景である。 (島根県教育委員会・津和野町教育委員会の案内板より)
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■津和野城大手登城道…慶長6年(1601)坂崎出羽守直盛が前城主吉見広行の萩へ転退の後、 入城してきて城下町形成に着手すると共に、それまで城の搦手(裏)であったこの道を大手(正面)に変更したものと言われる。 又、この道は、山上の石垣に使用した厖大な石材を運び上げた主なる運搬路ではないかとも思われる。 (案内板より)
【左】初詣の時に(^^)(2006/1/1撮影)
【真ん中】傾斜をグングン上がる♪さすがに遊歩道はパス(笑)
【左】下真ん中の赤い印の所。【右】出丸跡。
この出丸は、慶長5年(1600)、吉見氏に代わり津和野へ入城した坂崎出羽守直盛が津和野城改築の時に築いたもので、 築城の指揮を直盛の弟で、家老浮田織部がとったことから、別名「織部丸」ともいわれている。 出丸が、本城を守るための戦略上、防塁としての役割は必要不可欠であり、 特に坂崎氏の時代には鉄砲に頼る実践的な戦術が進み、この場所を強化する必要があった。 出丸あたりは東西約18m、南北約44.5mあり、門を入ると右に番所があり、石垣に沿って塀が巡らされていた。 また、出丸門から本丸東門までの距離は約244mある。(案内板より)
道があるようで無いような、木の根が張り出している道を上がると出丸跡。
【左&真ん中】出丸跡の虎口。礎石もキチンと残っていた(^^)
【右】虎口右側の石垣(右上の写真の右側)。
道を歩いていると、高さのある土塁の上に長く続く石垣! 網を設置している部分もあるけど、長いのに驚き!