ここまではあっさり到着。目の前に石垣が広がり、期待膨らむ(^^)そしてこの石段を上って二ノ丸へ。
■お左近の手水鉢…鳥取城の山下の丸における天球丸・二ノ丸・三ノ丸などの郭の基礎が確立したのは、池田長吉の時代である。 この時の城郭大改築にあたり池田長幸(池田長吉の息)夫人づきの女「お左近」の活躍はめざましく、 その功労を称えてこの石垣に手水鉢を築き込んだものといわれている。(文化庁・鳥取市教育委員会の案内板より)
【右】上方を見ると確かに手水鉢が!(丸い穴が手水鉢)案内板が無かったら、スルーしてしまってた(^^;)
【左】三階櫓下の石垣を回って、山下ノ丸の二ノ丸へ。
【右】三階櫓より。
【左】左上と同じ。草が無いだけで雰囲気が違う。(2009/8/9撮影)
【真ん中】門の礎石♪(2009/8/9撮影)
【右】少し石段を上がって。
鳥取城山下の丸のほぼ中央部に位置するこの二ノ丸は、池田長吉父子・光政・光仲・綱清・吉泰等の藩主の居館の場所であった。 南西隅には三階櫓、南東隅には走櫓・菱櫓、北東隅は正門の鉄御門があった。 中央部広場に残る礎石は、藩主の居館建物の様子を物語っている。(文化庁・鳥取市教育委員会の案内板より)
【左】三階櫓跡より二ノ丸(石段上って左)を見る。
【左】走り櫓跡。(2009/8/9撮影)
【右】三階櫓から走り櫓跡を。遠くに見える棒の部分。
【パノラマっぽく加工】二ノ丸からの景色。ここから鳥取城の周りの建物がよくわかる。山下ノ丸だし。
この櫓台には、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。 元禄5年(1692)に山上ノ丸の天守櫓が焼失した後は、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治12年の解体撤去までその偉容を誇っていた。 (文化庁・鳥取市教育委員会の案内板より)
【左】三階櫓入口。 【真ん中】櫓台上。 【右】石段を見下ろして。
【左】三階櫓跡。(2009/8/9撮影)
【右】仁風閣付近から見上げた三階櫓の石垣。
昭和40年の三階櫓石垣修復工事に際して発見された、北東面の天端角石(上面の角の石)。 銘文には普請奉行・下奉行と職人の棟梁の名前が刻まれている。 享保5年(1720)石黒火事で焼失した三階櫓が同13年に再建された時、建物だけでなく石垣も修復を受けていた事がわかる。 (鳥取市教育委員会の案内板より)
菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形だった。櫓台には二層の櫓が建ち、一階は四間四方であった。 二ノ丸の西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現しており、明治維新までその偉容を誇っていた。(文化庁・鳥取市教育委員会の案内板より)
【左】側面。 【真ん中】菱櫓跡上。 【右】天球丸から見下ろして。(2009/8/9撮影)
【左】菱櫓跡。(2009/8/9撮影) 【右】菱櫓跡より天球丸を見る。(2009/8/9撮影)