トロとまったり・tripのページ(鳥取城 その8)

吉川経家の鳥取籠城と切腹

天正9年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。 (現在残る城跡は、慶長年間の池田長吉造営以後のものであり、経家の在城時の遺構は不明である。) この戦いは、天下統一を目指して中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開された。 織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。 天正9年3月18日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。同年7月12日に、信長の派遣した武将羽柴秀吉が鳥取に到着した。 鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ包囲作戦を展開した。 これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。 毛利氏からの援軍・食料の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎる頃には、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。 ついに10月25日、吉川経家は城兵を助ける為に開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。 死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。 織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。(鳥取市・吉川経家公銅像建立委員会の案内板より)

箕浦家武家門

県庁向かい側。(2009/8/9撮影)

この武家門は、もとお堀ばたの南隅にあって、2千石の箕浦近江宅の門だった。 昭和11年に大阪の素封家広岡松三郎氏の寄贈によって現位置に移築保存されたものだが、今日では、鳥取が城下町であったことを語る貴重な建物である。(説明碑より)

鳥取城 2009.8.9記

そろそろ天球丸の工事が終わったかな?と再訪。しかし、あいにくの雨に降られて傘を差しつつの見学に。 工事が終わった所もあれば、何かしているという所もあって、行き来が大変だったりもしたけど、全然見れないわけではなかったので、いいとしよう(^^) 前回見なかった、吉川経家公の像や箕浦家武家門も見れたし、今回の目的は果たせたから満足満足♪ そういえば、雨でも、見学者がいることにビックリしてしまった。うちのように、遠方からなのかな?

鳥取城 2005.8.12記

微妙に日が落ちだした頃に到着した鳥取城。 登り切れるかな?と不安に思いつつ鳥取城のある山(久松山)を臨時駐車場の中学校から、見上げてみる。なんて大きい! 取り合えず、ぼちぼち下の方を写したら、山下ノ丸へ向かう。 仁風閣の後ろ側に大きく三階櫓が見えていて、結構登るのかと思ったら、あっさりと到着。 素敵な石垣を堪能し早めに山上ノ丸を目指す。覚悟はしていたものの、物凄いきつい! 夏にこんな山を登るのは、どうなの?って疑問に思うくらい、大変。 飲み物を飲みつつ、一歩一歩上るけれど嫌になってくる(^へ^;) しかし、途中で「○合目」という字を見る度に救われる。 が、その魔法も消え去って、「どうしてこんなに苦しい思いをしているんだ?」なんてグルグル…頭の中渦巻き、ゼィゼィと息切れし、立ち止まる。 そんな時、下山中の方が「こんにちは。後、もうちょっとですよ。」と声を掛けてくれた。これでやる気がp(^^)qありがとう。 そんなこんなで、山上ノ丸に到着。本丸手前の説明板付近で、大量の蚊が(@@)!! 折角、「着いた〜。」って一息付いた時だったのに、休めやしない(^^;) でも、もっと上は蚊はいなくて、の〜んびりベンチで景色を堪能。鳥取砂丘も見れて、満足、満足(^^) 無事、日が暮れるまでに下山も出来て、大変だったけどそれだけ満足度は高かった♪ そういえば、登山中に、周りには誰もいないのに、フフフフ…と女の人の笑い声が聞こえた…。

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