江戸城
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江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に
北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の
3代にわたって、西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ、江戸城の総構が完成した。
明治維新後、江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取り巻く
お濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは
北の丸地域が加えられ、広く国民に親しまれている。
(環境省皇居外苑管理事務所の案内板より)
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大手門 |
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江戸城の正門。櫓門は第二次世界
大戦で焼失し復元されたもの。
高麗門はほぼ江戸時代の姿。
(菊葉文化協会の案内板より・古写真)
(左)何回来ても、あの木が邪魔。
(左下)高麗門をくぐって…。
(下真ん中)桝形から振り返って。
(右下)迎えるは、どでかい櫓門!
(5枚=2006.10.14撮影)
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旧大手門渡櫓の鯱 |
三の丸尚蔵館 |
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昭和20年(1945)4月、戦災で焼失
した旧大手門渡櫓の屋根に飾られて
いた鯱である。頭部に「明暦三丁酉」
と刻んであることから、明暦の大火
(1657)で焼失した後、再建された際
に製作されたものと推定される。今の
大手門渡櫓は、昭和43年(1968)に
再建されたものである。
(菊葉文化協会の案内板より)
(2枚=2004.7.11撮影)
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同心番所 |
番所とは、警備の詰所の事で、百人番所、大番所とこの同心番所の
3つが残っている。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていた。
ここには同心が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当たっていた。
(菊葉文化協会の案内板より・絵図も)
(左)2006.10.14撮影。何か違うなぁ…と思ったら、
朱塗りの柵になってた。
(真ん中)2004.7.11撮影。
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同心番所からの門 |
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(左)大手三之門。同心番所の横。
人がかなり来るので、撮りにくい。
しかも、一応写したはいいけれど、
1人だけギリギリ入ってしまった。
ずっと動かないんだよねぇ。
(2006.10.14撮影)
(右)同心番所から。圧倒される!
(2004.7.11撮影)
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百人番所 |
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本丸と二の丸へ通じる要所である
大手三之門の前に設けられた番所
である。鉄砲百人組と呼ばれた、
甲賀組、伊賀組、根来組、二十五
騎組の4組が昼夜交替で詰めて
いた。各組には同心が100人ずつ
配属されていた。
(菊葉文化協会の案内板より・右の写真も)
(2枚=2006.10.14撮影)
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中之門跡 |
本丸中之門は、江戸城本丸へ登城
する経路の途中にある重要な防御
施設で、現在は石垣のみ残されて
いるが、かつては、渡櫓門、多聞櫓
が建ち並び、威厳のある状態であった
と思われる。中之門石垣は、江戸城
の中でも最大規模の巨石が使われた
「布積み」という技法で積まれている。
(修復工事中の案内板より)
(左)'04.7.11(右)'06.10.14撮影。
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中之門跡の石垣から刻銘が出土!(展示石は右側石垣の築石) |
本丸中之門の左右石垣最上段の築石に、石垣修復を行ったと
思われる江戸時代の大名の名前、年代を刻んだ刻銘が出土した。
中之門石垣は、元禄16年(1703)の地震により被害を受けた。
その石垣修復を伊勢国津藩第4代藩主の藤堂高睦(たかちか)
が普請を申し渡されたが、高睦も被災したため
役を免ぜられ、替わって松平右衛門督吉明が工事を行った。
松平右衛門督吉明は鳥取藩(32万石)の第3代藩主であった
池田吉泰のことで、1700年〜39年まで鳥取藩の
藩主であった。(修復工事中の案内板より)
(5枚=2006.10.14撮影)
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大番所 |
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「番所」とは、警備の詰所の事で、
百人番所、同心番所とこの大番所の
3つが残っている。中之門の側に設け
られ、他の番所よりも位の高い与力・
同心によって警備されていた。
前の坂を登った所が本丸の入口で、
中雀門があった。
(菊葉文化協会の案内板より・古写真も)
(2枚=2004.7.11撮影)
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中雀門跡&礎石 |
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石がボロボロ…!古さを感じる!
足元には、礎石が残っていた♪
そういえば、逆側からって写して
いないなぁ。人がいたのかなぁ?
(2枚=2004.7.11撮影)
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富士見櫓 |
「櫓」とは、倉庫や防御の役割を持った建物で、
かつて江戸城には19の櫓があった。
今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、
この富士見櫓の3つが残っている。
その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓。明暦の大火(1657)で焼失した
天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれている。
関東大震災により倒壊したが、復元された。
(菊葉文化協会の案内板より)
(2枚=2006.10.14撮影)
ここは柵があって入れない…。(右)案内板の写真いいなぁ。
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富士見多聞 |
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「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の
上に設けられた長屋造りの倉庫の
ことで、多聞長屋とも呼ばれた。
鉄砲や弓矢が納められ、戦時には
格子窓を開けて狙い撃つ事ができた。
本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて
万一に備えられていた。
(菊葉文化協会の案内板より・右の写真も)
近いっ(笑)
(2枚=2004.7.11撮影)
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本丸&午砲台跡 |
松の大廊下跡 |
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赤穂浪士討ち入りに繋がった事で
知られる、元禄14年(1701)の赤穂
藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)
の吉良上野介義央への刃傷事件の
あった所。廊下に沿った襖戸に松と
千鳥が描かれていたのが、名前の
由来と言われる。江戸城中で2番目
に長い廊下で、畳敷きの立派なもの
だった。(菊葉文化協会の案内板より)
(2枚=2004.7.11撮影)
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