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(〜おおまかに〜 1&2&3.東御苑、 4.皇居・皇居外苑・他、 5&6.北の丸公園・他、 7.見附)
田安門手前の堀&桜 | ||
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田安門向かって右の千鳥ヶ淵・ 桜の時期になるとテレビで見る千鳥ヶ淵のボートを、実際に見ることができた(笑) | ||
(左)桜に埋もれる田安門と千鳥ヶ淵。凄くきれい! (右)田安門から牛ヶ淵を見ようとすると、こんなに桜が(@@) | |
田安門に向かって左の牛ヶ淵・ 土塁の形がとてもいい感じ♪ここから見えるレトロな 建物は九段会館(右の写真)。 | ||
九段坂 | ||
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古くは飯田坂とも呼んだ。『新撰東京名所図会』には 「九段阪は、富士見町の通りより、飯田町に下る 長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、 之を九段長屋といひしより此阪を九段阪といひし なり。今は斜めに平かなる阪となれるも、もとは 石を以て横に階(きざはし)を成すこと九層にして、 且つ急嶮(きゅうけん)なりし故に、車馬は通すこと なかりし(後略)」とかかれている。 坂上は、月見の名所としても名高かったようで、1月26日と 7月26日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったという。 (標柱より) (右)北の丸公園入口。 | ||
品川弥二郎像 | 大山巌像 | 九段坂上の常燈明台 |
(左)桜に埋もれそうな品川弥二郎像(^^) (右)ここで常燈明台が灯っていたのかな?凄い。 |
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北の丸公園入口(南側)&桜&乾櫓 | ||
南側にも碑がちょこんとある。 | 入口付近の道路に枝垂れ桜!! | 望遠で。桜がアクセントでいい感じ♪ |
乾門から枝垂れ桜を眺めたら、よりいっそうピンク! | 桜の間から乾門を。車がいなければ凄くいいのにな。 |
首都高と千鳥ヶ淵 | ||
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千鳥ヶ淵は、首都高で分断! (左)右真ん中が首都高。 (真ん中)北の丸トンネル。 (右)首都高を走りながら! | ||
旧近衛師団司令部庁舎 | ||
東京国立近代美術館の工芸館が、保存活用しているもので、
首都高の側にある。
星は陸軍のマークらしい。
(2008.5.5撮影) |
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北白川宮能久親王銅像 | ||
弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。
嘉永元年(1848)青蓮院宮御相続、安政5年(1858)輪王寺
宮御相続、公現法親王(俗名能久)と称せられ、上野寛永寺の
門跡となられる。明治3年(1870)還俗して伏見宮に御復帰、
軍籍に就かれた。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、
同国歩兵・砲兵聯隊(れんたい)、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治10年
御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同5年北白川宮を
御相続遊ばされた。同17年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第一
旅団長、参謀本部御出仕。同25年陸軍中将に任ぜられ、
第六・第四師団長を御歴任、同28年1月近衛師団長に
親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱
瘴癘(えんねつしょうれい)の地で疫病に罹らせ給い、
明治28年10月28日(1895)台南に於て薨去遊ばされた。
御年49歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および
功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。
銅像は、明治36年1月26日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵
第一・第二聯隊正門前(現在地より東方約60m)に建立されたが、
昭和38年北の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。
製作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海
竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。
鋳造は陸軍砲兵工廠(こうしょう)である。
建立後80余年を経て若干個所の損傷を見るに至ったので、
昭和60年有志相諮り修復した。
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