トロとまったり・tripのページ(松山城 その11)

俎石(まないたいし)

恐ろしい〜(@@)結局、世継ぎは生まれず、お家断絶になったそう…。

松山城2代目藩主蒲生忠知(1627〜1634)は、暴君として知られている。 当初は名君と謳われていたそうだが、世継ぎがなかなか出来ない事が原因で、傍若無人な振る舞いが目立ち始めたという。 ついには、二之丸から望遠鏡で道行く女を眺め、城下から出産間近い臨月の妊婦をさらってきては、 「まないた石」と自ら名付けた石の上に妊婦をくくりつけ、生きたままその腹を切り裂いて、胎児を取り出したそうである。 その為か「まないた石」とか「泣かない蛙」とかの昔話が残っている。 ちなみに、この時代に松山城・二之丸は完成したと言われている。現在の瓦の紋章は蒲生家の紋章。(案内板より)

大井戸

昭和59年より発掘調査が行われ、大井戸が発見された。 井戸の東半分が床下になり、その上を囲炉裏で火をおこしていた「焚木之間」が覆っており、その基礎部分が大井戸の底に木組みとして残っている。 井戸の石段を上がったところにある一段低い所が、床下通路跡である。 火災の際には、木桶で水を汲み上げ、それぞれの階段から通路を経て迅速に火災現場に運搬するという、 松山城二之丸御殿の消化システムはこの時期においては、全国的にも例を見ない「優れもの」であったようである。 一日に一寸水が湧くと言われているが、現在は基礎の木組みを見せやすくする為、ある程度の量を保つよう自動排水している。 規模は、東西18m・南北13m・深さ9mで、石積みは乱層積および段積になっている。 大井戸の東半分は井戸の中に三列各3本の柱が縦横に貫を通して組まれ、その上に邸がせり出して建てられていた。 その基礎部となった梯子状の木材は現在も残っている。 古絵図には三ヶ所の階段を描いたものものあり、汲み上げた防火用水を床下を通って、火災現場に運ぶ仕組みになっていたと思われる。(案内板より)

奥門

【左】外側から。ブルーシートが写る!
【真ん中】内側から。ここにもかぁ(^^;)
【右】北側の石垣。イベント用ステージ?

四足門

北側の門。
【左】外側から。 【真ん中】内側から。
【右】背後の高石垣を写そうと待つも、タクシーが動かない…。

番所(トイレ) & 米蔵

【左】番所(トイレ)。反対側はトイレの入口が…(^^;)
【真ん中&右】米蔵。
【真ん中】内側から。
【右】外側の方が石垣上にあるので、いい感じ♪

井戸
米蔵方面
西側の門

【左】西側にある井戸。深さ20m。
【真ん中】井戸から米蔵を。
【右】井戸近くの門。表御殿跡方面を。

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