トロとまったり・tripのページ(大洲城 その1)

愛媛県 大洲城

えひめけん おおずじょう

■大洲城(別名=地蔵嶽・亀ヶ岡城・大津城)
      =見学自由
■天守、高欄櫓、台所櫓=500円
開館時間=9時〜17時(札止=16時半)
休館日=12月29日〜31日
駐車場=有料駐車場(大洲市民会館前)

2007/8/15現在

住所=大洲市大洲903番地
(この時は、宇和島城から向かったので) 宇和島市から大洲市へ国道56号を進み、バイパスに入らず、左の大洲市街方面の国道56号へ。 ずっと進んで、国道441号との交差点(片原町)を左折、その後は、案内板が出るので、 従って行くと、大洲市民会館&有料駐車場があるので、そこにとめて見学。

大洲城

案内板の写真をクリック→拡大。

■大洲城の沿革…大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれている。 激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、 戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となるが、この頃、4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられている。 元和3年(1617)米子から加藤貞泰が入城した。 以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主として、この地を治めた。 明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888)には天守も取り壊された。 しかし、4棟の櫓は解体を免れ、いずれも国の重要文化財に指定されている。 4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に、 平成16年(2004)に木造で復元したものである。

苧綿櫓(おわたやぐら)

苧綿櫓は、城山の東南山麓肱川左岸石垣上に建てられている。昭和32年6月18日、二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けた。 大洲城の創建については諸説もあるが、1596〜1617年(慶長元年〜元和3年)にかけての造営と推定される。 綿櫓がその頃からあったかどうか明らかでないが、加藤家所蔵の元禄5年(1692)の古地図に記載されているのを見ても、元禄以前に存在していたことは明白である。 現存の苧綿櫓は棟札にあるとおり大破したので、天保3年(1843)に改築されており、実戦的と言うよりもむしろ装飾性が強く、袴腰形石落とし、北側の出窓などに表われている。 石垣は安山岩を使用した割石乱石積、法勾配(のりこうばい)及び反り付きで、鯱は大洲藩お抱え瓦師原八兵衛の作である。 その後の改築は、大洲市が国庫の補助を得て、昭和33年(1958)8月1日着工、昭和34年(1959)7月31日に竣工、現在に至っている。(大洲市教育委員会の案内板より)

櫓下御門(二の丸大手門)跡

この門は、二の丸の表門にあたる櫓門で、門前の石垣で囲まれた部分だけでなく、 堀に架かる土橋の先まで塀で囲った桝形を持つ点が特徴である。 東向きの門の上には渡櫓が乗り、門の南側と北側の石垣上にもそれぞれ櫓が建っていた。 現在でも石垣の一部が残る。(案内板より)

【右】櫓下御門(二の丸大手門)跡付近にある大洲市民会館。この前にある有料駐車場を利用。 この駐車場は、なかなか広くて、金額も優しかった(^^)ちなみに、市民会館の横から苧綿櫓近くへ行く事が出来る。
【左下】駐車場側から。
【右下】逆側(二の丸)から。

下台所(しもだいどころ)

大洲城に残る当時の建造物は、重要文化財の4つの櫓とこの下台所のみである。 城内の食料庫としての機能を果たしていたと言われている。 建物の内部は、一部2階建て、切妻造、本瓦葺、桁行19.82m、梁間7.90mの大きさで、外部は軒裏を含め漆喰塗込めの建物である。(案内板より)

当時の建物とは思えない扱い(笑)
【右】下台所から天守が見える(^^)まだ石垣や塀の整備中?

二の丸御殿跡(表御殿跡)

【右】(切り取り加工)高欄櫓から。写真中央の白い建物付近が表御殿跡、手前が奥御殿跡。

二の丸御殿(奥御殿跡)への道

【左】下台所からその先のなだらかな坂を上がると、左側に二の丸御殿跡(奥御殿跡)。
【右】左の写真の逆で、写真右側が二の丸御殿跡(奥御殿跡)。奥の白い建物付近が表御殿跡。

二の丸御殿跡(奥御殿跡)

御殿は、城主が政治を執り行う表御殿と城主の住まいにあたる奥御殿に分かれていた。 下の曲輪は表御殿が、上の曲輪には奥御殿が建ち並んでいた。(案内板より)

【左】二の丸御殿跡(奥御殿跡)の石垣。
【右】ここから見る天守も石垣も格好いい〜(^^)

【左】二の丸御殿跡(奥御殿跡)。【真ん中】上から。【右】天守方面。

天守閣の礎石

平成16年に完成した大洲城天守閣の復元に伴って、平成11年から天守閣跡の発掘調査が実施され、その調査により礎石と呼ばれる石が6個発見された。 発見された礎石の位置は、天守閣復元図の柱の位置とほぼ一致し、大洲城天守閣の礎石であることが明らかになった。 大洲城天守閣の礎石は全部で16個あったと想定されるが、発見された6個以外はすべて抜き取られていた。 礎石に使われた石は全て緑泥片岩と呼ばれる石材で、フジツボが付着したものがあることから、肱川河口の長浜周辺の海から運ばれてきたものと思われる。 こちらには復元された大洲城天守閣の平面図を原寸大で再現し、6個の礎石を移築して展示している。(案内板より・発掘写真も)

大型建物の基礎石

天守閣跡の発掘調査によって、天守閣が建てられる以前の古い地層から、天守台のやや南よりの位置に巨大な石列が発見された。 天守閣が建築された際に一部は壊されたようだが、天守台の中に埋め込まれた状態で、比較的よく保存されていた。 この石列は建物を支えた基礎石と考えられている。 天守台のさらに外側に石列は続くことから、現在の天守閣よりも一回り大きな建物の基礎石であろうと思われ、 その大型の建物とは大きさからみて天守級の建物ではないかと考えられている。 現在の天守閣が建てられる前に、一時期古い天守級の建物が存在したと考えられる。 現在、石列は復元された天守閣の床下にそのままの状態で保存されているが、 復元工事の際にやむを得ず3箇所は取り除く必要があったため、取り除いた3個の石を移築し展示している。(案内板より)

本丸方面

【パノラマっぽく加工】凄く大きくて格好いい(^^)

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