【金山城 その1】

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群馬県 金山城  ぐんまけん  かなやまじょう
■金山城(別名=太田金山城)=見学自由
駐車場=無料          (2005.9.23現在)
住所=太田市金山町40-98
(広域的には東北自動車道 館林I.C〜国道354号〜国道122号) この時は埼玉方面から国道122号を群馬方面へ進んで、 太田市に入って、国道407号の交差点を過ぎて次の 6叉路の道を斜め左に入る。すぐに、左に曲がり (道が少しカーブっているので、 通り過ぎそうになる。)県道316号との交差点を直進し、 どんどん進むとすれ違いに怖くなる道を過ぎた辺りを、 右折。後は、そのまま山を上っていく。

史跡 金山城跡
今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純(いえずみ)が文明元年(1469) に築城したものが基礎となっている。その後、下克上によって 実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となった。 上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に 取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきたが、天正12年 (1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁(くにしげ) と、その弟長尾顕長(あきなが…館林城主)の帰還を条件に 開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置された。 天正18年(1590)小田原北条氏の滅亡と共に廃城となった。 江戸時代に金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、 現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっている。 昭和9年(1934)には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が 良好な事から、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けた。 廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や下草で覆われ、 城の面影は失われていたが、調査の結果、大規模かつ複雑な 虎口形態を持っていた事や、さらに、曲輪斜面の石垣、 石敷通路や土塁石垣など、随所に石を多用している 山城であったことが明らかとなって来た。往時(中世末) における関東の山城としては、きわめて珍しい「石垣の城」 という様相が明らかとなりつつある。(案内板より)
金山城のいろいろ (写真をクリック→拡大)
地図 (写真をクリック→拡大) 西城 (写真をクリック→拡大)
金山城主要部の1つで本城より西に尾根伝いに行った広い面積の 城郭である。西城には、金山城主由良氏の一族である矢田堀領主、 泉伊予守が居城していた。そのため、泉氏は西城殿とも 呼ばれていた。 西城からは、新田郡方面が見渡せるので、天正12年の金山城 攻防戦では、馬を引き出して米で水洗の様をし西南方面に塀を 懸け囲らせて壁塗りをして、水の豊富にあるが如く見せた所である。 金山城開城後は西上州の高山遠江守が在城した。 (文部省・群馬県・太田市の案内板より)
西城駐車場 西城跡 西城筋違城門跡
西城筋違虎口の見附塹壕 西城跡の筋違虎口の土塁・石垣
西城と見附出丸の間は発掘中 見附出丸へ 逆から見ると
大手前塹壕の石碑 見附出丸の堀切 見附出丸の先の小曲輪
見附出丸の先の小曲輪の城址碑 見附出丸の先の小曲輪からの景色
金山城跡の入口にある石碑 本丸にある説明板より
■金山城の歴史… 平安末期、新田氏によって築かれ、新田義貞一族の滅亡と共に廃城となる。 約100年の後、文明元年に新田家純が再築した。享禄元年、 新田昌純は、重臣横瀬泰繁のために殺された。 泰繁の子、成繁は姓を「由良」と改め両毛地方を征服し、 金山城全盛時代をもたらした。天正12年、北条氏に金山城を 攻撃され、籠城半年、ついに和睦開城、由良氏は桐生城へ引退、 北条氏より城代が派遣された。天正18年北条氏滅亡により廃城となる。
■金山城の構造… 日本式山城と朝鮮式山城との混合形式。 本城水手郭に石垣をラセン状にした軍用貯水池がある。 全城石垣で築かれ野面積である。軍用植物として、竹・梅・蜜柑・ 茶・樫・さいかち等が今でも残っている。 金山城は金山丘陵全体に築かれた雄大な山城であるが、 重要部分は、本城・西城・坂中城・八王子山矢倉台の四城郭である。 (どちらも文部省・群馬県・太田市の案内板より)
西矢倉台西堀切
西矢倉台西堀切は、西城から実城(本丸)までの間にある 4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切。この堀切は他と 異なり、堀底に石を敷いて通路(写真@)として利用しており、 通路の先は桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いている。 また、通路の北側には柱穴(柱を支える為に掘られた穴)があり、 敵兵の北側からの侵入を防ぐ為の柵があったと考えられる。 堀切の西脇には、堀切を掘り下げる際に出た土や石を土塁状に 盛り上げ、堀切内を敵兵から「隠す」為の工夫がなされていたようだ。 また、この土塁状の高まりの下から通路の縁石(写真A)が見つかり、 堀切内の通路よりも古い通路があった事がわかった。古い時期には、 桟道から西へ通路が延びていたようだ。(案内板より)
(左)写真−@、(真ん中)写真−A、(右)今は通れない桟道。
西矢倉台西堀切の橋
西矢倉台下堀切の説明板より
↑堀切内には崩落した石や土砂が厚
  く積もっていた。
   (園路から見た堀切/調査時)
西矢倉台下堀切は、西矢倉台の西下に造られた防御施設で、 西城から実城(本丸)へ向かう間の二番目の堀切。 この堀切は、大堀切、物見台下堀切と比べて規模は小さく、 堀切は実城に近付くにつれ幅が広く、深く造られている。 断面の形は、上部が逆「ハ」の字であるのに対して、 下部は箱状に掘られ、簡単に攻め登られないように 工夫されている。また、この堀切は西矢倉台西堀切のように 通路として使われた跡はない。堀切北端を横断する通路は、 埋まってしまった堀切の上を整備した園路で、当時の通路ではない。 堀切は北までずっと続いており、今立っている足元の約1.5m下が堀底と なっている。(案内板より)
西矢倉台下堀切 西矢倉台跡へ続く… 西矢倉台跡

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