トロとまったり・tripのページ(唐津城 その5)

二の丸住居・学問所跡

唐津城の中枢部、藩主の住居と藩庁が置かれていた二の丸。 現在の早稲田佐賀中学・高校には、高く石垣を廻らせた遺構が残っているが、 この中に藩主の住居と藩庁が置かれていた。多くの藩士が毎日出仕していたことでしょう。 またグラウンド部分には、藩校等の学問所や蔵や馬場・厩等があった。(唐津市の案内板より)

【左】(パノラマっぽく加工)早稲田佐賀中学・高校が立っている。 写真は南側からの石垣♪
【右】天守から。

【左&真ん中】上のパノラマっぽく加工した写真左側の櫓台。
【右】櫓台から校内に石垣が続いていた。

【左&真ん中】上のパノラマっぽく加工した写真の右側面(南東側)。
【右】坂口門跡付近の石段側から。

【左】坂口門跡付近の道を北へ進んだ所。
【真ん中】北側の石垣。ここから眺める石垣が格好いい!
【右】二の丸住居・北西側の櫓台。

二の丸・南西櫓跡

【左】城内閣(閉館)の南側が櫓跡。石垣がいい!それにしても、閉館後、どうなるのかな?
【真ん中】二の門堀から。
【右】船入門跡側から。写真中央。

二の門堀に架かる橋の手前(南東側)

【左】城内閣(閉館)入口の石垣。名残?
【真ん中】敷地側から二の門橋方面。
【右】石垣付近でカニを発見(^^)こういう時って、ちょっぴり嬉しい。

二の門跡&二の門堀に架かる橋

【左】左の建物付近が二の門跡、桝形を通り橋へ。
【真ん中】桝形側から三の丸方面。奥村五百子(いおこ)像が立つ。
【右】三の丸側から。

二の門堀

【左】二の門跡付近の橋から南側。

唐津藩初代藩主寺沢志摩守広高は、慶長7年(1602)から7年をかけて唐津城を造った。 この時、松浦川の河口を満島山(まんとうさん…現唐津城一帯)東側に付け替え、 二の丸と三の丸の間にあった旧川筋を堀に活用したといわれている。 この堀は二の門堀とか二の門外堀と呼ばれていた。 三の丸に住む藩士達は、この堀を渡って登城していた。 堀の北東側には海に向かって北の門と呼ばれる門が開いており、 二の門の西側には時の太鼓とか撞鐘堂と呼ばれる時を告げる櫓があった。 (唐津市の案内板より)

【左】二の門跡付近の橋から北側。
【真ん中】北の門側から二の門跡方面。 【右】奥村五百子(いおこ)像。

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