トロとまったり・tripのページ(安土城 その1)

滋賀県 安土城

しがけん あづちじょう

■安土城=見学自由(2006年の秋から有料)
駐車場=この時は時期的に有料…500円(※普段は無料かも?秋からは不明。)

2006/4/30現在

住所=蒲生郡安土町下豊浦
名神高速道路 八日市I.Cを下りて、国道421号左へ(近江八幡へ)。 踏み切りを2回渡って、県道208号を(安土へ)真っすぐ進み、 新幹線の高架をくぐって、県道201号を真っすぐ進み、 線路の陸橋を通って、県道201号から県道2号へ右折。 そのまま進んで、安土城址前信号を左折する。

安土城

古絵図以外の2枚の写真をクリック→拡大。

安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で破った翌年、天正4年(1576)に始まる。 築城にあたっては、畿内・東北・北陸から多くの人夫が集められ、当代最高の技術を持った職人達が動員された。 築城開始から3年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住み、信長の居城としての安土城は完成した。 しかし、3年後、天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまう。 それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールする。 しかし、天正13年、小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、安土城はその役目を終えて廃城となる。 その後、江戸時代を通じて信長が城内に建てたハ見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けて行く事なった。(案内板より・絵図も)

遠景
駐車場
駐車場から

【左】信長の館の駐車場から見た安土山。鯉のぼりが可愛いな♪

江藤加賀右衛門邸跡

【左】安土城址碑。写真右奥に、江藤加賀右衛門邸跡の碑。
【真ん中&右】江藤加賀右衛門邸跡。

大手周辺西虎口

この時は、まだ整備の途中で、中には入れなかった。遠くに、説明板があるのが見えるのにな〜(・ ・ )
【左】安土城の碑。

大手周辺西虎口の上段部分

東側石塁北上段郭と虎口

東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭(A区)が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣(石垣360)により遮られている。 石塁との間は約6m。石垣に沿って側溝が設けられている事から、大手道に通じる通路であった事が分かった。 この石垣360には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口(A区虎口)が設けられていた。 虎口は、間口約5.0m、奥行約5.5m以上で、石段で上がるようになっている。 石段は下段4段、上段3段で、中間に奥行2.5mの踊り場が造られていた。踊り場には東西側壁寄りに門の軸柱を受ける礎石が残っていた。 門の支柱を受ける礎石が残っていない為、門の規模は不明だが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われる。 上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遺構は残念ながら残っていない。 しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であった事が考えられる。 東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物へ招き入れたと思われる。 石垣には大きな石が等間隔に配置され、模様のように大石を配置している事から「模様積み」と仮称した。 このような大石を等間隔に置く石垣の例は、佐賀県肥前名護屋城跡の古田織部陣跡、 広島県吉川元春館跡や万徳院跡にあるが、安土城の方が古く、模様積みの初源ではないかと思われる。(案内板より)

大手道

【左】調査前の大手道。説明板より。
【真ん中】発掘調査で検出した大手道の遺構。説明板より。
【右】安土城といえば大手道(^^)看板によると「頂上天主閣まで、405段あり、往復所要時間約40分〜1時間」…よよ、405段!?

安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道。 大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されている。 大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側に幅1〜1.2mの石敷側溝があり、更にその外側に高い石塁が築かれている。 道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡などの屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓など、多くの建物で構成されている。 まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるだろう。山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びている。 この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造る事無く、踏石列を扇状に展開させている事が特徴である。 伝武井夕庵邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至る。 屈曲部分は幅4m程に狭まるが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道になる。 安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長上にそびえる天主は、街道を行き交う人々に信長の力を強く印象付けた事であろう。(案内板より)

どちらのアングルも格好いいな〜♪

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