トロとまったり・tripのページ(安土城 その5)

本丸取付台跡

【左&右】千畳敷・本丸御殿跡から本丸取付台跡への石段。その後、天主跡へ。

【左】「あと18段です。天主跡まであと一息頑張って」の看板。
【真ん中&右】左の写真の看板の向こう、八角平方面へは通行止めになっている。

天守台跡

とうとう天主跡へ!それにしても、石垣&石段に木漏れ日があたって、いい感じ〜(^^)

安土城の天主は、完成してから僅か3年後の天正10年(1582)6月に焼失してしまう。その後は訪れる者も無く、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまった。 ここに初めて調査の手が入ったのは、昭和15年の事。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れた。 この時に石垣の崩壊を防止する為に、若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在に至っている。 安土城天主は、記録から地上6階、地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であった事がわかる。 今立っている場所は、地階部分だが、天主台の大きさは、これよりはるかに大きく2倍半近くある。 現在では、石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめる事はできない。(案内板より)

ハ見寺

織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院である。天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にある為、 城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上した事が数々の記録に残されている。 本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼を免れる事が出来たが、 江戸時代末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまった。 その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るまで法灯を守り続けている。 平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見された。 南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、 その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものだった。 本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられている。境内の南方は急傾斜となっている為、 参道は西の二王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じている。 建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築された事が、種々の記録から分かる。 その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏等が増築された。 江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵等、寺の生活を支える多くの建物が建てられた。(案内板より)

【左&右】ハ見寺跡方面への石段。この付近で、「どうしてキチンと整備した石段を作らないんだろうね?」と、とぼけた事を言う人がいた(☆□☆)

裏門跡 ・ ハ見寺本堂跡

【左】裏門跡。
【真ん中&右】ハ見寺本堂跡。

三重塔

【左】三重塔が大きくて、全部入らないよ〜(^^;)
【右】三重塔付近から西の湖。眺めが良くて、一息つくのに丁度いい(^^)

二王門(表&裏)

三重塔から急な石段を下りて行くと凄く素敵な門がある!また上らなきゃいけないけど(笑)

【左】二王門側から石段を見上げる。
【右】二王門側から下に続く石段。

安土城 2006.4.30記

石段の城跡とは覚悟してたけど、本当に凄かった〜(^^;)季節が春だったから、まだよかったんだろうけど(笑) 丁度、整備が進んでいる状態で、中へ入る事が出来ない所もあったけど、それ以外はバッチリ♪こんなに石塁が残っていたのか〜と感心しきり(^^) 説明板も親切で、詳しく書かれてあって、想像も膨らんで嬉しい。信長さんを身近に感じられ、城跡だけじゃない楽しさも感じられた。 駐車場から見える土の中に、石塁っぽいものが見えたりと、まだまだ変わっていきそうな予感タップリの安土城跡。 ここから車で少し走った所の「安土城天主 信長の館」で、天主を復元している。こちらも凄かった!
(別のページで紹介)→  信長の館安土町城郭資料館(駅前の信長像含む)

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