【岩村城 その1】

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岐阜県 岩村城  ぎふけん  いわむらじょう
■岩村城(別名=霧ヶ城)=見学自由
■岩村城址公園
駐車場=無料駐車場(岩村歴史資料館前)
                   (2007.10.6現在)
住所=恵那市岩村町
この時は、中央自動車道 恵那I.Cを下りて、 国道19号を恵那市街へ右へ(案内板あり)。 次に、中津川方面の国道19号へ左折。 少しして国道257号(岩村方面)へ右折。 裏山信号で国道363号へ左折し、少しして右へ、 また少しして左斜めに行き、高校の横を通って 岩村歴史資料館へ向かう。ここに車を止めて、 歩いて登る。(ちなみに、出丸まで車で行くことも できる。)

岩村城 (案内板の写真をクリック→拡大)
岩村城は、別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した 要害堅固な山城で、海抜717mに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、 日本三大城の1つである。 岩村城の創築は、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉(かげかど)が、文治元年 (1185)に、遠山荘地頭に補せられたのに始まる。 景廉の長男・景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、 以後、遠山氏が居城した。 戦国動乱の時期に入り、武田信玄の臣・秋山信友が、 天正元年(1573)に岩村城を奪取して入城したが、 同3年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、 森長一、森忠政の森3代、田丸具忠と28年間に目まぐるしく交替した。 慶長5年(1600)関が原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって、 松平家乗(大給松平家)が城主となった。 江戸時代の城主は、松平氏2代、丹羽氏5代のあと、 大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。 城郭は、中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、 帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や 自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。 建物は明治維新により廃城され、後、明治6年(1873)に取り壊された。 (岩村町教育委員会・岐阜県教育委員会の案内板より)
太鼓櫓と御殿門
石垣と一緒に見ると、堂々たる姿の太鼓櫓(^^) 塀越しに見るのもお気に入り♪桜だともっといいかも。
平重門
麓に、これだけ復元されているのは凄い! 他にも、大きな岩村城復元絵図があって、参考になるのでとっても嬉しい!
岩村藩主邸跡(写真=岩村町歴史資料館)
岩村藩主邸(御殿)は、江戸時代初期(1610年頃)松平家乗によって 創設され、藩主は山頂の岩村城本丸から降りて入った。 防衛防備に充分の注意を払い、門には番所を置いて出入りを監視し、 屋敷内には地下室や地下道もあった。 明治2年(1869)版籍奉還により岩村県となり、藩主が知事となると、 ここを県庁とした。明治4年(1871)廃藩置県により、知事松平乗命 (のりとし)は東京移住を命ぜられ、藩主邸は空家となったが、 明治14年10月30日夜、失火により全焼してしまった。 御部屋は東西33間(約60m)南北36間(約65.4m)という広大な もので、他に御内家、土蔵、番所など建物が23あった。 (岩村町教育委員会・岐阜県教育委員会の案内板より)
岩村藩校知新館(右=佐藤一斎像)
この建物は、岩村藩校、知新館の正門である。 知新館は元禄15年(1702)藩主 松平乗紀(のりただ)によって 創立された。美濃国において最初の藩学であり、全国的に見ても 古く十指に入る。創立当時の岩村藩は2万石(後に3万石となった) の小藩でありながら、文教政策に重点を置き、有能な藩士の育成を 図った。この精神は今も岩村町に脈々として生きている。 江戸末期に昌平黌(校)を中心にして日本の学問をリードした 林述斎、佐藤一斎等を岩村藩から出したことは決して偶然ではなく、 元禄時代から知新館という藩学の土壌が培われていたからである。 知新館の名称は論語の「温故知新」から採った。 知新館正門の向かって左側に釈奠(せきてん)の間がある。 釈奠とは孔子を祭ることで、知新館における聖廟(孔子廟)であり、 常に孔子の像を配し、教授は礼拝してから授業に向かった。 (岩村町教育委員会・岐阜県教育委員会の案内板より)
登山口 登山口の街灯(?) 登山道
登山口方面を見ると、「女城主の里」で、逆から見ると「森蘭丸」。 ちなみに、登山道に「熊出没」の看板が…(^^;)
下田歌子勉学所 菖蒲園
■下田歌子勉学所…
明治から昭和にかけて日本の女子教育の先駆者で歌人であった 下田歌子が勉学に勤しんだとされる勉強部屋(父の書斎)を、 復元したもの。
…なんだけど、塀しか写さず…。
その反対側には公園になっていて、
霧ヶ城址の説明板も立っていた(^^)
藤坂の険
藤坂は険しい急坂で、岩村城守備の前衛の役を持ち、 一の門に至る約300mの間を言う。途中で大きく左折するが、 この地点を初門(はつもん)または假御門(かりごもん)と 称していた。戦争になると、ただちに門を構え、柵をめぐらして 強固な防衛陣地としたが、この初門の地点から城下町を一望に することが出来るので、敵の動静も知ることができた。 平時の藤坂は登城坂にすぎないが、戦争になると初門を はじめとして、坂の途中に何ヶ所も陣をつくり、防御したので 容易に進むことが出来なかった。 藤坂の名は伝説として、岩村城を創築した加藤景廉の妻・ 重の井が、紀州から藤の実を取り寄せて植えたことから 始まったといわれ、藤にまつわる伝説が幾つかある。 (案内板より)
  ここまでも坂が大変だった気が…(^^;)
初門跡 巨木並木址の切株 石垣も見られ…
巨木並木址は、登城坂の巨木群伐採跡で、所々にある 大きな切株を見つつ、坂を上がっていく(^^)

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